(『世界歴史大系 アメリカ史2』から抜粋)
戦後の安全保障の中心は、当初は国際連合に置かれるはずだった。
アメリカは、1943年8月に国務省内で、新しい国際組織の憲章草案を完成させていた。
アメリカ国民は、国際組織への加入に対しては、1941年には賛成は13%だったが、44年には68%に増えていた。
フランクリン・ローズヴェルト大統領は、43年12月のテヘラン会談で、「米・英・中・ソの4カ国で平和を守る」という、『4人の警察官』構想を示した。
さらに44年8月の4国の会議で、新たな国際組織は、平等原則に基づく総会と、大国の意見一致に基づく「安全保障理事会」の、二元構成にする事が決定した。
1945年4~6月の、『国際連合』の創立会議には、51カ国が参加した。
『国際連合』は、前身の国際連盟に比べて、大国がすべて参加したので、強い権限を持った。
しかし、「大国の意見一致を前提にする」という危うさも、同時に内蔵していた。
米ソの対立が常態化すると、国際連合は無力化した。
国際連合の憲章では、民族の自決権を明記しながらも、国際連合の監視下での信託統治を認めたため、独立運動への干渉を可能にしてしまった。
さらに大国の植民地には、信託統治さえも適用されなかった。
(2013.7.29.作成)