(『世界歴史大系 アメリカ史2』から抜粋)
米ソの関係にひびが入り始めたのは、1945年のポーランド問題からである。
当時のポーランドは、イギリス側とソ連側の2つの政権が並立して、どちらの政府を代表にするかで対立が生じた。
これは、連合政府の樹立で、一応の解決をみた。
ソ連も当時は、連立政権でも親ソ的であれば許容していた。
ソ連は、第二次大戦中に連合国で最多の2000万人の犠牲者を出しており、強い発言権があった。
英米は、イタリアからソ連の影響を排除するために、『占領軍を出した国が、その国の統治を行う』という原則を決めた。
(イタリアは、英米軍が占領していた)
これにより、敗戦国の戦後の体制(解放された国の戦後の体制)は、どの国の軍隊によって解放されたかで決まる事になった。
東欧はソ連軍が占領したため、東欧ではソ連が主導権を握った。
1946年2月に、アメリカのジョージケナンは、「ソ連は西側よりも弱体であるが、拡張を狙っており、『封じ込め戦略』によってその意図をくじくべきだ」と提案し、注目された。
46年3月には、イギリス人のチャーチル(当時は元首相)がアメリカで演説をし、「東欧はソ連圏に入った」として、英米の協力が必要だと訴えた。
(これは鉄のカーテン演説と呼ばれている)
(2013.7.29.作成)