(『大統領の検屍官』シリル・ウェクト著から抜粋)
1963年11月22日、ケネディ大統領が暗殺されたとき、私は32歳で法医学の道を(検屍官の道を)歩み始めたばかりだった。
そのニュースを観ていた時は、まさかこれほどケネディ暗殺の調査に関わるとは、夢にも思っていなかった。
ケネディ大統領は、撃たれた時はテキサス州で遊説中であった。
ケネディは、テキサス州ダラスのラヴ・フィールド空港に午前11時に到着し、ジョンソン副大統領とジョン・コナリー知事に出迎えられて、オープンカーでダラスのダウンタウンをパレードした。
大統領とジャクリーン夫人はリムジンの後部シートに座り、すぐ前にはコナリー知事夫妻が座った。
シークレット・サーヴィスの護衛官が車を運転した。
ジョンソン副大統領夫妻らは、後ろの車で続いた。
パレードはエルム通りに入り、7階建てのテキサス教科書倉庫ビルの付近にさしかかった時、時刻は12時半だった。
テキサス教科書倉庫ビルの前を過ぎて数秒で、銃声が響きわたった。
ケネディは頭などを撃たれ、コナリーは背中などを撃たれた。
狙撃から5分と経たないうちに、パークランド記念病院にケネディ大統領は運ばれた。
かすかに心臓は動いていた。
ここで驚くべき事実が判明した。
シークレット・サーヴィスも補佐官も、そして夫人さえも、ケネディの血液型を知らなかったのだ。
ケネディは、13時頃に「亡くなった」と発表された。
そしてジョンソン副大統領は13時38分に、エア・フォース・ワン(大統領専用機)の機上で宣誓し、第36代の大統領となった。
20分後に警察は、「犯人のオズワルド(24歳)を逮捕した」と告げた。
オズワルドは逃走中に、J・D・ティピット巡査を射殺したとの事だった。
オズワルドは、テキサス劇場内で逮捕された。
「俺は誰も撃っちゃいない」と、オズワルドはリポーターに言った。
オズワルドは、元海兵隊員で、1959年にソ連に亡命し、そこでKGB大佐の姪であるマリーナ・プルサコーヴァと結婚し、62年6月にアメリカに帰国していた。
連邦捜査官は、「オズワルドは、カリフォルニアの通信販売会社からカルカーノ6.5ミリ・ライフルを買い、それで撃った」と発表した。
カルカーノ・ライフルは、1940年にイタリアで作られた銃で、倉庫ビル6階の箱の陰から発見された。
銃の側には、使用済みの薬莢も何発か見つかった。
2日後に、オズワルドは大きな拘置所へ移送される途中で、(ダラス警察署の地下で)ジャック・ルビーに射殺されてしまった。
ケネディ暗殺現場からのインタビュー放送では、前方から撃った別の狙撃者が居たことが暗示されていた。
しかし、その説はすぐに消されて、当局によってオズワルドの単独犯行が強調され始めた。
狙撃されたケネディ大統領は、現場から近いパークランド病院に運ばれた。
しばらくすると、ケネディは息を引きとった。
ダラス市の検屍官アール・ローズは解剖を行う旨を伝えたが、シークレット・サーヴィスはピストルに手をかけながら、「それはダメだ」と告げた。
そして、パークランド記念病院から、遺体を運び出してしまった。
ジョンソン副大統領は、遺体とジャクリーン夫人がエア・フォース・ワン(大統領専用機)に乗るまでは、ダラスを離れることを拒んだ。
遺体は、夫人の希望により、メリーランド州ベセスダの海軍病院医療センターに運ばれた。
そして、午後8時から検屍・解剖が始まった。
解剖にあたったのは、検屍官ではなく、海軍の医師たちだった。
政府高官たちは、電話1本で最高の検屍官を呼べたのに、それをしなかった。
この解剖は、軍高官たちに監視されていたので、医師たちは様々な制約をうけた。
例えば、「背中の射創は切開するな」と命じられた。
その命令をしたのは、現場に居た人々の証言によれば、ホワイトハウス付きの主治医ジョージ・G・バークリー提督だ。
医師たちが脳の切開をしなかったのは、驚きである。
脳は外景をざっと調べられただけであった。
解剖の数ヶ月後には、解剖の大半を行ったジェイムズ・J・ヒュームズ中佐が、「11月24日(暗殺の2日後)に自宅の暖炉で、検屍メモのオリジナルを焼却した」と発表した。
警察の捜査も異常で、コナリー知事が着ていた服は、調査の前に洗濯されてしまった。
大統領を撃ったものと同じ弾丸がコナリーに命中したかを判定するためには、服の調査が必要だったが、正確なテストは不可能となった。
犯行現場の捜査もひどく、その場にいた人々は全く拘束されず、目撃者たちは名前も聞かれずにその場を離れてしまった。
現場の保護もされず、エルム通りはすぐに車が通れるようになった。
私の親友で、あの日にパークランド記念病院で外科研修医をしていたチャールズ・クレンショーは、ケネディの体を見た。
クレンショーは、「頸部の正面にあった射創は、絶対に入り口の傷だった。」と言っている。
彼の証言は、ケネディの手当をした2人の外科医が行った記者会見の内容と一致している。
2人とも、「頸部の射創は入り口だった」と言った。
(※しかし、アメリカ政府が設置したウォーレン委員会は、「頸部の傷は出口」と発表した)
(2014年12月5日に作成)