裁判まで①
レーンはケネディ暗殺を調査し本を出す

(『大がかりな嘘』マーク・レーン著から抜粋)

私は、ウォーレン委員会に証人として出席し、その活動を非難した唯一の人物である。

ケネディ暗殺を主題にした最初の著書『ラッシュ・トゥ・ジャッジメント』は、ウォーレン委員会の報告を分析した本であった。

これは瞬く間にベストセラーになり、国民の意見を作り変えるのに役立った。

その後、さらに入手した証拠を分析した結果を、『シチズンズ・ディセント』という本にまとめた。

それを基にして、フィクション・フィルム『エグゼクティブ・アクション』が作られた。

私がJFKに初めて会ったのは、1959年である。

当時の彼は、民主党の大統領候補になるため活動を始めていて、私はニューヨークで一役買っていた。

私は1960年にニューヨーク州の議会選挙に出馬し、11月に当選した。

同じ日に、JFKは大統領に当選した。

JFKが殺された1963年11月22日には、私は弁護士として刑事裁判所に向かっていた。

私は10年以上も、刑事事件の被告の弁護人として法廷に立っていて、依頼人はたいてい貧しい黒人かプエルトリコ人だった。

裁判が終わると、ニュースを見ていた知り合いの判事が声をかけてきた。

「君は、このリー・オズワルドという男が、大統領を殺したと思うかね?

彼が大統領の背後から撃ったなら、銃弾が前から入った傷跡が喉に残るわけがない。

医師たちは、喉の傷は銃弾の入った跡だと言っている。

これは面白い裁判になるぞ。」

だが、裁判にはならなかった。(※その経緯は後述される)

オズワルドの単独犯行説が、連邦政府とダラス当局から発表され、ダラスの地方検事ヘンリー・ウェードが要点を記者会見で説明した。

ウェードは、「オズワルドは殺害の動機について話さないし、犯行を否認さえしている」と説明した。

ダラス警察署長は、「我々はライフルを押収した。オズワルドの指紋が検出できれば、有力な証拠になる。指紋が検出されるはずだ。」と語った。

しかしテストの結果、指紋は検出されなかった。

この暗殺事件では、あらゆるジャーナリストが政府や警察のバカげた説明を受け入れ、疑いを抱かずに報道していた。

報告の一貫性のなさや矛盾に対して、異議を唱える者は1人として居なかった。

オズワルドは、世間の目から2日間、隔離されていた。

彼は無実を主張する機会を与えられず、「弁護士に会わせてもらいたい」と懇願し続けていた。

彼は時折、警察署内の部屋から部屋に移送される中で、記者に姿を見せた。

ケネディ暗殺の罪に問われている事を記者から知らされた時、彼は仰天したようだった。
そして「警察やFBIからケネディ暗殺について質問された事はない」と言った。

彼は連行されている途中で、「濡れ衣だ」と叫んだ。

11月24日の朝、オズワルドは移送中に、ジャック・ルビーに射殺された。

ルビーは、シカゴ・マフィアに仕えた人物で、FBIの情報提供者でもあった。

オズワルドが殺されると、ヘンリー・ウェードは再び記者会見を開いた。

そして「オズワルドが大統領とティピット巡査を殺したことを裏付ける、15の証拠がある」と主張した。

ウェードの主張の一部は、それまでの報告と食い違っていた。
しかしジャーナリストたちは、そのまま報道するだけであった。

この会見を見ていた私は、驚きで跳び上がりそうになった。

検察の主張はインチキだったのに、受け入れられたからだ。

ウェードが出した証拠は不完全で、全体を通じて納得のいかないものだった。

暗殺から数週間のうちに、私は事件を分析してみた。

これまで何百回となく依頼人の弁護のためにしたのと同様に、証拠を並べてみたのだ。

分析し終えると、1万語に及ぶ論文を書き上げて、ナショナル・ガーディアン誌にのせた。
発行と同時に話題となり、何万部も増刷された。

この論文を、オズワルドの母であるマルガリート・オズワルドに送る者が出た。

その結果、ある日マルガリートから私に電話がかかってきた。

彼女はこう言った。

「ウォーレン委員会が発足し、私と話したがっている。

あなたは、『オズワルドが犯人という証拠は揃っていない』と言ってくれた。

リーは私の息子ですから、彼が無実なのは分かっているんです。

ウォーレン委員会で息子の弁護をしてほしい。
あなたなら、リーのために証人を見つけてこられる。」

私は論文を発表してから間もなく、主な収入源としていたある会社の顧問弁護士の契約を破棄されてしまった。

そのため財政的に、この仕事を引き受けられる状態ではなかった。

だがマルガリートに説得されて、事件の調査を始めることにした。

ところがウォーレン委員会は、リー・オズワルドの弁護士として私が出頭することを拒否して、秘密のうちに運営することを決定してしまった。

後に証人として呼ばれた時、私は委員会を厳しく批判した。

私はケネディ暗殺事件を調べるため、ニューヨークに小さなオフィスを開き、『市民調査委員会(CCI)』を結成した。

大勢の若い男女が、ボランティアを申し出た。

私たちは講演を行い、ケネディ暗殺について分かった事実を解説した。

14年後に、我々のオフィスにFBIが盗聴器をつけていた事も判明している。

弁護士協会の大物だったルイス・F・パウエルとリー・ランキンは、私を非難して弁護士の資格を剥奪しようとした。

パウエルは、後に連邦最高裁判事となった人物だ。

この憲法を無視した行為は、元訟務長官のエドワード・エニスがとりなしてくれたため中止となった。

ウォーレン委員会の報告書が1964年9月に出ると、私はその内容を検討した。

分析結果は、目撃者たちのインタビューと共に、『ラッシュ・トゥ・ジャッジメント』という本にまとめた。

アメリカの全ての出版社が刊行を拒んだが、FBIとCIAが強い圧力をかけていた事が何年か後に判明した。

結局、イギリスの出版社が出版に同意してくれた。

その後、アメリカの出版社も同意してくれた。

この本はベストセラーとなり、人々に論議が湧き起こった。

世論調査では「大多数のアメリカ市民が、ウォーレン委員会の報告書に不信を持っている」と明らかになった。

しかし、その後10年間は、真相究明で進歩はなかった。

ジム・ギャリソンが、クレイ・ショーをケネディ暗殺の共謀罪で起訴したが、ショーは無罪となって、ギャリソンはマスコミから容赦なく批判された。

だが、ウォーターゲート事件が起きたことにより、情報公開法の改正があった。
これにより、国民は初めて公文書を見られるようになった。

(2018年11月15日に作成)


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