(『大がかりな嘘』マーク・レーン著から抜粋)
私はワシントンDCにオフィスを借りて、ケネディ暗殺事件の調査が不十分であることを国会議員などに説明して回った。
その結果、ケネディ暗殺事件とキング牧師暗殺事件を調査するための、特別委員会の設置が決まった。
『市民調査委員会(CCI)』の各支部が山のような手紙を議員たちに送ったことが、力を発揮した。
ウォルター・フォーントロイ議員が、キング牧師暗殺事件の調査を指揮することになった。
私は、ウォルターと会談した。
ソファーに腰掛けると、彼は話し始めた。
「困ったよ。誰が殺ったのか分かっているのだ。
FBIがキング牧師を殺した事は知っている。証拠も揃っているんだ。
ところが、FBIが私の家とオフィスに盗聴器を取り付けた。
だが警察に届けるわけにはいかない、危険が多すぎる。」
暗殺調査の下院特別委員会は、首席顧問や首席調査官(弁護士が担当する)になりたがる人がいなかった。
私はリチャード・スプレーグを推薦した。そして彼の採用が決まった。
スプレーグはフィラデルフィアの弁護士で、同市の検事をした事もあり、容赦なくマフィアの犯罪を追及して称賛された人物だ。
同じ頃に私は、情報公開法を利用して、最高機密扱いになっていた文書を入手するために、いくつかの訴訟を起こした。
勝訴した後、数十万ページの書類を入手した。
全米から学者が集まり、書類が精読された。
「オズワルドの単独犯行があり得ないこと」を裏付けるFBIの報告書が見つかったが、私は興味はなかった。
私にとって重大なのは、誰が陰謀に関わっていたかだった。
リチャード・スプレーグは調査を始めると、CIAとFBIも対象にした。
この直後に、下院特別委員会に対するCIAとFBIの攻撃が開始された。
情報機関と深い繋がりを持つワシントン・ポストなどの記者たちは、反スプレーグ運動を進めた。
スプレーグは、CIAもFBIも司法省もあてにならないと悟ると、ベテラン検事を採用することにした。
そしてロバート・タネンバウムと、ロバート・レーナーを調査官として雇った。
さらに学者のドノバン・ゲイと探偵のゲートン・フォンジも雇った。
本格的な調査は1977年1月にスタートしたが、CIAとFBIは委員会の設置期間の延長を阻止しようと躍起になった。
延長をめぐる採決の前日、CIAとFBIの議会工作とマスコミのスプレーグ攻撃は頂点に達した。
後にタネンバウムは私にこう言った。
「スプレーグへの攻撃は凄まじく、彼が委員会に残れば下院が委員会の存続を承諾しないだろうと言われてしまった」
その頃フォンジは、ジョージ・ド・モーレンシルトと連絡を取り合っていた。
モーレンシルトはCIAの工作員で、オズワルドが教科書倉庫ビルで働くよう手配した男である。
彼は第二次大戦中にナチスのスパイだったという嫌疑をFBIにかけられていたが、本格的な取り調べを受けたことはない。
ロバート・タネンバウムは語る。
「あの晩のことは忘れられない。
フォンジはモーレンシルトに会いに行こうとしてたが、モーレンシルトは猟銃で頭を吹き飛ばされて死んだ。
そしてワシントンでは、スプレーグが辞めないなら委員会はおしまいだと圧力をかけられていた。」
その日にスプレーグはクビになり、翌日にタネンバウムも辞意を固めた。
タネンバウムは語る。
「辞めたくはなかったさ。
わざわざ前の仕事を捨ててワシントンに来たのだから。
ケネディ暗殺の鍵が、オズワルドと情報機関との関係にあるのは分かっていた。
ところが情報機関は情報を提供しようとしないし、議会もCIAやFBIと戦ってまで情報を手に入れようとしない。
これでは望みはないだろう。」
スプレーグとタネンバウムが居なくなると、ロバート・ブレイキーが新しい首席顧問に任命された。
ブレイキーは、マフィアのボスの1人であるモー・ダリッツと繋がりのある男だ。
彼は、ケネディ暗殺の背後にはカストロがいたと必死で訴えた。
そして調査を放棄し、ドノバン・ゲイとロバート・レーナーを解雇してしまった。
だが私たちは、訴訟を起こして政府文書の公開を求め、多くの文書を入手した。
その中に、オズワルドがメキシコ・シティを訪れたというCIAがでっち上げた話に関する文書もあった。
この証拠文書は、何年も後にハント対リバティ・ロビー訴訟で活用される事になる。
(2018年11月17日に作成)