裁判まで②
ウォーレン委員会①
アール・ウォーレンの人となり、報告書を称賛したマスコミ

(『大がかりな嘘』マーク・レーン著から抜粋)

ケネディ暗殺の調査をするために、ジョンソン大統領が設けた委員会の長に指名されたのは、アール・ウォーレンであった。

アール・ウォーレンは1891年に生まれ、カリフォルニア州ベーカーズ・フィールドで育った。

人口7000人のうち500人が娼婦の町で、犯罪に満ち無法者やカウボーイの町だった。

中国人の鉄道労働者たちが住む地区は「ジャップ横丁」と呼ばれ、彼らは人種差別に遭っていた。

アラメダ郡の地方検事補になったウォーレンは、アジア人を毛嫌いしていた。

彼は日本人の土地所有を禁じる決定を下したハイラム・ジョンソンを支持したり、アメリカ生まれの日本人の市民権取得に反対運動をした。

アメリカが第二次大戦に参戦すると、ウォーレンは日系アメリカ人を強制収容所に集める計画を進めた。

彼はカリフォルニア州知事になっており、州知事の集まる会議で「ジャップを収容所から出したら、スパイと他のジャップの見分けがつかなくなる」と説明した。

1948年の大統領選では、ウォーレンは共和党の副大統領候補になったが、トーマス・デューイともども落選した。

52年の大統領選では共和党のアイゼンハワー候補を支持し、見返りとしてアイゼンハワーは「大統領になったら最高裁のポストが空き次第、君に与える」と約束した。

ところがアイゼンハワーが当選すると、すぐに最高裁長官のフレッド・ビンソンが急死した。

アイゼンハワーは「約束したポストは長官ではなく判事だ」と説明したが、ウォーレンは受け入れなかった。

この問題を仲介したハーバート・ブラウネルは、「すぐにワシントンに来られるなら長官のポストを与える」と告げた。
11年務めてきた知事職をすぐに辞めることは出来ないと見込んだのだ。

するとウォーレンは、さっさとカリフォルニア州知事を辞めてしまった。

1963年11月にケネディ暗殺が起き、リンドン・ジョンソンが大統領に昇格すると、ジョンソンは最高裁長官のウォーレンに暗殺調査委員会の委員長になるよう説得した。

三権分立の原則から考えると、大統領の命令で最高裁のトップが委員長になり、国会議員が委員の大半を占めるこの委員会は、悪夢そのものであった。

しかし大統領が射殺され容疑者も射殺されるという衝撃の中で、国民はそれを受け入れてしまった。

1964年9月27日に、ウォーレン委員会の報告書がマスコミに公開された。

するとマスコミは称賛し、CBSのウォルター・クロンカイトは「報告を信じよう」と国民に呼びかけた。

ニューヨーク・タイムズも社説で、「委員会はほとんど考古学的とさえいえる詳細さで分析した。説得力があるこの報告で、陰謀説の根拠を吹き飛ばした」と報じた。

だが、そもそもオズワルドは容疑者にすぎず、逮捕されると弁護士にも会えなかった。

彼は「自分は無実だ、弁護士に会わせろ」と叫び続けていたのである。

オズワルドが殺されると、ニューヨーク・タイムズは第一面で「大統領暗殺犯 留置所の廊下でダラス市民に撃たれて死ぬ」と報じた。

これでは、彼が有罪判決されたも同然ではないか。

片やオズワルドを殺したジャック・ルビーは、マフィアの幹部でFBIの密告者でもあったのに「ダラス市民」と呼ばれたのである。

マスコミは、オズワルドの「無実を推定される権利」を否定したのだ。

数年後にウォーターゲート事件が起きると、国民の怒りを背景に情報公開法の修正案可決という良い結果があった。

この法改正により、機密扱いだった文書が入手できるようになった。

1964年7月9日に開かれたウォーレン委員会で、アレン・ダレス元CIA長官はこうメンバーに告げている。

「誰もウォーレン委員会の報告書など読みはしない。
国民が読むと思うな。

ほんの数人の学者は読むだろうが、大衆が読むことはまずない。」

(2018年11月17日に作成)


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