裁判まで② ウォーレン委員会②
CIAは証拠を捏造する、CIA工作員プリシラ・ジョンソンについて

(『大がかりな嘘』マーク・レーン著から抜粋)

ウォーレン委員会の調査が始まると、アール・ウォーレン委員長はオズワルドの単独犯行説を断固として支持した。

委員会のメンバーは、CIAからオズワルドがソ連に亡命した事があると知らされ、共産主義と関係があると考えた。

さらにCIAは、オズワルドがケネディ暗殺の2~3週間前にメキシコ・シティに滞在し、ソ連当局者と接触したと報告した。

これから説明していくが、CIAのこの情報はでっち上げたものである。

CIAはウォーレン委員会に、こう報告した。

「1963年9月26日~10月3日まで、オズワルドはメキシコに
 いた。
 その間ほとんどはメキシコ・シティに滞在した。

 キューバ大使館を9月27日に、ソ連大使館を10月1日に
 訪れている。

 オズワルドがキューバ大使館に行った証拠は、メキシコ人の
 キューバ大使館員シルビア・デュラン夫人から得られた。

 ソ連大使館に行った証拠は、CIAの監視記録から得た。」

そしてデュラン夫人の署名入り供述書と、ソ連大使館前に設置していた盗撮カメラで撮ったフィルムを、証拠として提出した。

さらにCIAは、「オズワルドがソ連大使館で会ったのはバレリー・コスティノフというKGBの高官で、オズワルドはコードネーム『同志コスティン』を割り当てられていた」と述べ、録音テープを提出した。

オズワルドの妻マリーナは、ウォーレン委員会に何度も召喚されて尋問されたが、64年9月6日に最後の尋問を受けた。

この時マリーナは、2週間前に見つけたという切符の半券を提出した。

それはメキシコ・シティのバスの乗車券で、マリーナは切符だと気付かなかったが、一緒にいたジャーナリストのプリシラ・ジョンソンがバス切符だと見抜いた。

マリーナは、これはウォーレン委員会の捜している物証であると説明した。

CIAが作った「オズワルドがメキシコ・シティに行った」というでっち上げ話は、綿密な調査をすれば簡単にボロが出てしまうものである。

まず、メキシコ・シティのキューバ大使館を訪れたという話だが、これはデュラン夫人の証言に基づいていた。

デュランは当時26歳のメキシコ市民で、オズワルドが訪れたとされる時期の1ヵ月前の63年8月にキューバ大使館に雇用されている。

彼女はごく普通の家庭の人で、ケネディ暗殺後にCIAの尋問を受けた。

この時にCIAの気に入らない供述をしたらしく、CIAはメキシコ・シティ警察署の協力者に彼女を逮捕するよう命じた。

CIA長官は、メキシコ・シティのCIA支部に電報を打っている。

「シルビア・デュランの逮捕は、極めて深刻な問題である。

 下手をすれば、キューバに責任をかぶせることが計画通りに
 できなくなる。」

この電報の内容は、メキシコ警察に対するCIAの影響力の強大さを示している。

実はメキシコの警察官の多くは、CIAでトレーニングを受けており、裏でCIAと契約を結ぶ者もいるのだ。
(※中米の警察や軍は、アメリカの訓練を受けることがよくあります)

電報には、こうも書かれていた。

「彼女から聞き取った情報は公表したり漏らしたりせず、
 すべての情報を我々に知らせつつ、彼女の逮捕がメキシコ政府の
 左翼分子に知られないように要請する」

警察の圧力にデュランは折れ、CIAの用意した供述書にサインして、オズワルドが大使館を訪れたと認めた。

そうしてやっと彼女は釈放された。

「釈放後に決してこの事を口外するな」と命じられたが、彼女はメキシコ警察がなぜこんなに酷い事をするのか理解できなかった。
この件にCIAが介入しているとは考えてもみなかったのだ。

警察の扱いに憤慨した彼女は、洗いざらいを話し始めた。

するとCIAは、彼女を黙らせるための再逮捕を決め、63年11月27日に電報で指示した。

この「緊急」と記された電報では、「我々が関わっている事を気付かせないよう求める。この件に関し、メキシコ当局がすべての責任を負ってほしい」と要求している。

ウォーレン委員会は、デュランを証人として召喚することもなく、CIAの報告を信じてしまった。

オズワルドがキューバ大使館を訪れたという話は、CIAによって捏造されたものだが、ケネディ暗殺の証拠として使われてしまった。

次に、「オズワルドはメキシコ・シティでソ連大使館を訪れていた」というCIA報告についてだ。

CIAがその証拠として提出したのは、1枚の写真と1本の録音テープだった。

ソ連大使館へ入ろうとする男をとらえた写真は、CIAが撮影したものが、63年11月22日のケネディ暗殺の数時間前にFBIに手渡されていた。

CIAは、63年9月22日の朝にメキシコ・シティで撮影したと説明している。

ケネディ暗殺が起きると、FBIはこの写真を、オズワルドの母マルガリートに見せた。

ところがマルガリートは、写真の男が誰だか分からない(知らない人だ)と答えた。

そして息子がジャック・ルビーに殺されると、写真の男はルビーだったと申し立てた。

写真の男は、太めの白人男性で、オズワルドでもルビーでもなかった。

ウォーレン委員会は写真の男がルビーではないと証明するのに躍起になり、本来の目的を完全に忘れてしまった。

CIAが提出した録音テープはどうだろうか。

実はそのテープは、ウォーレン委員会には提出されず、委員たちは聞くことが出来なかった。
それなのに委員会は信用したのである。

ウォーレン委員会の報告書が出て何年も経ってから、私はFBIの機密文書を入手できた。

それはケネディ暗殺に関する包括的なリポートで、暗殺の翌日に作成されていたが、ウォーレン委員会の手に渡らなかったものだ。

このリポートは、オズワルドがソ連大使館を訪れたとの話が、CIAの偽情報だと明らかにしていた。

CIAはオズワルドのソ連大使館訪問の証拠として、録音テープのコピーをFBIに渡していた。(おそらく写真と一緒に渡したのだろう)

そのテープには男の声が入っていて、リー・オズワルドと名乗り、自分にメッセージはないかと尋ねていた。

当時FBIは、ダラス警察に逮捕されたオズワルドを尋問中だった。

FBIはリポートの中で、「写真もテープもオズワルドではないと判断した」と一言でまとめている。

それではオズワルドの未亡人マリーナが、スペイン語の雑誌とメキシコのバス切符の半券を見つけた事は、オズワルドがメキシコ・シティに行った証拠となるのだろうか。

この件も、CIAの工作跡がうかがえる。

ウォーレン委員会がオズワルドの単独犯行説を承認しようとした時、大きな障害があった。

マリーナが、夫の無実を語っていたことである。

オズワルドの死後、ただちに彼女はFBIに拘束され、数ヵ月間も外部との連絡を絶たれた。

マリーナは、FBIから夫が有罪だと思わせるような証拠を見せられたが、夫の無実を信じ続けた。

マリーナはFBIから、「君はソ連に追放されるかもしれない。その際アメリカで出生した子供はアメリカに残ることになる。ソ連に追放されたくなければ協力的になれ」と脅された。

(※マリーナは夫に連れられてロシアからアメリカに来た移民です)

FBIはオズワルドのメキシコ・シティ行きを認めさせようとしたが、マリーナは「夫はメキシコに行っていない」と応じた。

FBIはマリーナの家を捜索したが、メキシコ行きを示す証拠は発見されなかった。

CIAがウォーレン委員会にオズワルドのメキシコ・シティ訪問を報告した時、委員にはその証拠がほとんどない事に疑問を持つ者もいた。

大使館を訪れたことを示唆する証拠以外に、どうしてメキシコ滞在を示すものが見つからないのだろうと。

するとケネディ暗殺から10ヵ月も経ってから、突然にバスの切符が見つかった。

マリーナがスペイン語の雑誌にはさまっていたバスの半券を見つけ、そこに居合わせていたプリシラ・ジョンソンが「それはメキシコのバスの切符だ」と教えたのだ。

この証拠はウォーレン委員会にただちに報告されたが、委員のラッセルは不審に思い質問した。
「この半券が、なぜFBIの念入りな捜査を免れることができたのか」と。

なぜオズワルドはスペイン語が読めないのに、テレビ番組表の雑誌を買ったのか。

そんな雑誌を、なぜマリーナはずっと取っておいたのか。

疑問は尽きなかったが、それに対する答えはなかった。

論理的に見て、一緒に居てバス券の重要さを教えたジャーナリストのプリシラ・ジョンソンこそ、疑わしい人物である。

それまで徹底的な捜索で見つからなかったものが、彼女が訪れた直後に発見されたのだから。

実はFBIは文書の中で、ケネディ暗殺の容疑者としてプリシラ・ジョンソンも挙げていた。
これは多分、オズワルドと旧知だったからだろう。

63年11月23日付(ケネディ暗殺の翌日)のFBIリポートでは、「プリシラ・ジョンソンは国務省に雇われていた」と記されている。

これを突き付けられた彼女は、その事実を認めたが、実はもっと隠れた任務に就いていたのではないか。

プリシラ・ジョンソンは、1959年にオズワルドがソ連に亡命するためモスクワに着くと、すぐに彼と会いインタビューしている。

ジョンソンは記事の中で、「ホテルで偶然にオズワルドと会った」と説明している。
なぜ彼女はそこに居たのだろうか。

CIAの覚書には、プリシラ・ジョンソンの名がオズワルドの手帳に書かれていた事、ジョンソンがソ連のアメリカ大使館内でパートタイマーとして雇われていた事が、記されている。

パートタイマーとは、CIAが契約を結んだ工作員を表すときによく使う語だ。

「大使館に」ではなく「大使館内で」雇われていたのは、CIAの下で働いていた事を示している。

ジョンソンは「オズワルドという青年が滞在している、と友人が何気なく言ったのが、オズワルドと会ったきっかけ」と書いているが、その友人の名はリチャード・スナイダーである。

スナイダーの表向きの任務はモスクワのアメリカ大使館員だったが、CIA文書で明らかになったが彼はCIA職員だ。

つまりジョンソンは、オズワルドと会いインタビューする事を、CIAから命じられたのだ。

プリシラ・ジョンソンは、ジョージ・マクミランと結婚していた。

マクミランは、キング牧師の暗殺にFBIとCIAが関与していたとの疑惑が広がる中、ジェームズ・レイの単独犯行だったとする本をFBIからの情報を元に書いた人物である。

ジョンソンは、マリーナ・オズワルドについて本を書く契約を、マリーナと結んだ。

マリーナは夫が射殺された後、金に困っていたのでこの契約を受け入れた。

この本が出版されるまで、マリーナはケネディ暗殺事件について第三者に話すことを禁じられた。

本が出るまで何年もかかったが、本が出た後にマリーナは私にこう語った。
「本の内容の大部分が嘘であり、ジョンソンもそれを知っていた」

1967年にジョンソンは、スターリンの娘であるスベトラーナ・アリルーエワをモスクワでインタビューした。

このときCIAは、アリルーエワに多額の金を渡して、アメリカに亡命するように説得した。
その金の一部は、彼女の伝記の版権として与えられる手筈だった。

アリルーエワは67年4月に亡命し、CIAは大きな工作を成功させた。

彼女の身の安全を確保するためにCIAが選んだ場所は、プリシラ・ジョンソンの家だった。ジョンソンが世話係となったのである。

ジョンソンは、アリルーエワの本の翻訳も担当することになった。

要するに、マリーナとアリルーエワは2人共に、ジョンソンの世話を受けている。

さらにオズワルドとアリルーエワは2人共、モスクワでインタビューを受けている。

1964年9月にマリーナの部屋でバスの切符が見つかった時、そこにプリシラ・ジョンソンが居合わせていたのはCIAにとって何とも幸運であった。

(2018年11月17日&21日に作成)


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