(『大がかりな嘘』マーク・レーン著から抜粋)
ドナルド・フリードは作家で、私の古くからの友人だ。
1977年に彼は、CIAの活動についての討論会を企画し、私にも参加を求めた。
その討論会には、元CIA高官も出席しており、私はデーヴィッド・アトリー・フィリプスと討論した。
フィリプスは、CIAの西半球地区の最高責任者を務めた人物で、私の著書の出版に圧力をかけた事もあった。
彼は退職後は、CIAに対する批判との戦いに専念していた。
フィリプスは、ケネディ暗殺の時はメキシコ・シティ支局長で、オズワルドがメキシコ・シティを訪れていたというでっち上げ話で中心的役割を果たしたはずだった。
討論会が始まり、私の出番になり演壇に上がると、私はまず『CIAが売春宿を経営していた』という、その頃公表されたばかりの事実を取り上げた。
これは暗号名『ミッドナイト・クライマックス』という作戦で、売春宿を経営してそこにカメラとテープレコーダーを備え付け、売春婦を使ってお客に麻薬を与えていた。
ターゲットになったのは、CIAに雇われた工作員、ジャーナリスト、外交官だった。
CIAは私に対しても心理面の研究をしており、『マーク・レーンの心理的輪郭』という公式文書まで作成していた。
(※著者のマーク・レーンは、ケネディ暗殺の真相追究をしていたので、CIAに監視されていたのである)
そこには、私が物事にどのように反応するかの予測もあった。
フィリプスが、この文書を参考にするだろうことは明らかだった。
私が話しの始めに、「これはニュルンベルグ裁判(第二次大戦後に連合国がドイツの戦争犯罪を裁いた裁判)ではありませんが、CIAが裁かれる時がやってくるかもしれません」と言うと、フィリプスは落ち着きを失い顔色は青ざめた。
彼は、自分が何をしてきたか分かっていたのだ。
私は続けてこう言った。
「CIAの秘密工作について論じたいと思います。
フィリプス氏は、CIAの西半球地区の責任者でした。
彼は著書の冒頭にこう書いています。
『私は秘密活動に25年を捧げたキャリアに満足している』。
しかしアメリカ紳士録の彼の経歴では、彼はCIAで働いた事は一度もありません。
彼がマフィアと手を結んでカストロ暗殺作戦を進めていた時期は、キューバで経営者だったことになってます。
彼は、ケネディ暗殺を調査するウォーレン委員会では、オズワルドがメキシコ・シティを訪れたとの嘘の報告をしています。
最近にあった下院暗殺調査委員会でも、オズワルドがメキシコ・シティのソ連大使館に電話した時の録音テープについて、嘘の証言をしました。
『テープはケネディ暗殺の前に破棄された』とフィリプス氏は証言しましたが、テープは暗殺時にコピーされてFBIに提供されています。
FBIはテープを分析して、オズワルドの声ではないと結論しました。
偽者の声だという報告が上がったので、フィリプス氏とCIAはテープを破棄したのです。」
私は次に、CIAのベトナム工作について話した。
「米軍のフェニックス作戦は、CIAのウィリアム・コルビー長官の指揮下で作成されました。
下院の委員会の証言で、コルビーはこの作戦で2万人のベトナム人が殺されたことを認めました。
退役軍人のバート・オズボーンも議会で証言し、『CIAの訓練を受けた尋問官が多くのベトナム人を拷問したが、ただの1人も尋問から生き残らなかった』と述べました。」
私は話を終え、演壇をから自分の席に戻りながら、頭を抱えているフィリプスの前を通り過ぎた。
デーヴィッド・アトリー・フィリプスが演壇に上がり、話を始めた。
「アメリカ紳士録について言えば、私は1958年にCIAを退職しました。
そしてキューバに行き、PR会社を始めたのです。
しかし結局は仕事はなくて、すぐにCIAの仕事に戻りました。」
聴衆からはかなりの笑いが湧き起こった。
フィリプスが主張を述べ終わると、不満が溜まっていた聴衆の1人が尋ねた。
「メキシコ・シティの話がない。
メキシコ・シティの真相は何なのですか?」
フィリプスは答えた。
「記録が明らかになれば、メキシコ・シティにいるオズワルドを撮った写真は存在しないと分かるでしょう。
オズワルドがソ連大使館を訪れたことを示す証拠は、ないのです。」
フィリプスは告白したのだ。
問題の時期にメキシコ・シティでCIAを動かしていた男が、証拠はない(証拠を偽造したが見破られてしまった)と語ったのだ。
聴衆の1人が別の質問をした。
「なぜCIAは、ウォーレン委員会に批判的な人達の信用を落とそうとしたのですか?
そんなやり方は不公正だと思わないのですか?」
フィリプスは答えた。
「CIAにいた25年間、私は汚いやり口を遂行するように何度も要求されました。
スパイ活動に携わる者が、清く正しい規則に従って生活するなど、全くあり得ません。」
ある学生はこう質問した。
「マーク・レーン氏を破滅させ、彼の説が発表されるのを妨害するための計画は、あなたも承認したのですか?」
フィリプスは言った。
「レーン氏が触れていたCIA文書(※これは1つ前の記事『ケネディ暗殺の真相究明する者を、CIAは貶めようとする』のことを指していると思われる)ですが、私はベネズエラのカラカスで受け取っています。
こういったものは全世界の支部に向けて出されるので、トップにいなければ差し止められないものです。
さて、私がもしトップだったら多分、発送していたと思います。
なぜならば、組織がレーン氏の攻撃にさらされていたからです。」
フィリプスは最後に、スパイ生活を送ることの苦しさを述べた。
「私は一時期、国務省に勤めていることになっていました。
ある時、ご婦人が『あなたはどんな仕事をなさっているの?』と尋ねたのです。
私は『書類をめくっているだけです』と言わなければなりませんでした。
嘘が身に付いてしまうのです。
嘘をつかなければ仕事ができないのです。」
討論会の後、主催者のドナルド・フリードは、出席した元CIA高官たちを夕食に招待した。
その時のことをフリードはこう回想する。
「フィリプスは同僚から無視されていた。
まるで彼が大事な秘密をばらしてしまったみたいだった。
会話の内容は全く異様で、いつになったら一国の指導者を暗殺するのが容認されるようになるのか、だった。
元CIA副長官のレイ・クラインは、『国益のためなら、いつでもどこでも暗殺は認められる』と語った。」
この討論から数年後に、フリードはワシントンで起こった元チリ大使のオーランド・レテリエ殺害事件を取り上げた本を書いた。
その中では、デーヴィッド・アトリー・フィリプスの関与が告発されている。
(2018年11月23日&24日に作成)