ケネディ大統領は外交政策を大きく変えたので、CIAから危険視された

(大がかりな嘘 マーク・レーン著から抜粋)

L・フレッチャー・プラウティは、元アメリカ空軍大佐だが、在任中は30年以上も諜報機関と密接な関係にあった。

国防総省の内でCIAの軍事行動を監督する地位にいた事もある。

1955~63年には、統合参謀本部の特別作戦部長だったし、空軍特別作戦部長も務めた。

彼は現在、ケネディ大統領がCIAを解体しようとしていた事を認めている。

プラウティによれば、CIA解体の第一歩は「ダレスCIA長官、カベル副長官、ビッセル計画担当副長官」の巨頭3人の追放だった。
(これはピッグス湾侵攻の失敗後に行われた人事です)

ケネディは64年に再選されたら、CIAを本格的に解体する予定だったという。

CIAの幹部だったE・ハワード・ハントは、著書『今日をわれらに与え給え』の中でこう述べている。

「ケネディ政権の哲学によれば、真の国家の敵は貧困と無知であった。

 共産主義者の国際的陰謀を問題にすると、嘲笑の的になった。

 デタントが首都ワシントンの空気を支配していた。」

CIAにとってデタント(緊張緩和政策)は軽蔑すべきものであり、彼らを辱めるものだった。

ケネディはCIAを統御するため、CIAの不法行為を調べる委員会を設置し、国家安全保障行動覚書(NSAM)で権限を劇的に縮小した。

ケネディはNSAM55号、56号、57号によって、CIAの活動を制限し、戦争を仕掛けられないようにした。

だがCIAは、隠れて秘密工作活動を続けた。

アーサー・シュレジンジャー・ジュニアによれば、ロバート・ケネディは非公式にCIAを監視する責任を与えられていた。

CIAはケネディ大統領を危険視し、動きを監視していた。

専門家による心理分析データを元に、大統領の行動予測も行っていた。

判断ミスを連発していたにも関わらず、CIAは自分たちの予測に自信があったようだ。

大統領がCIAを調査し解体する検討を進めれば、当然ながらCIAの暗部が明るみに出る。

CIAの首脳部にすれば、認めるわけにはいかなかった。

ケネディは64年に再選したら、フーバーFBI長官も解任する決意だった。

フーバーはほぼ半世紀にわたって秘密警察の長官に君臨しており、自らをアメリカ政府の長と見なしていた。

彼のオフィスに届けられるメモには、彼自身の考案による「SOG」という宛名が記されていた。
SOGとは、政府中枢(シート・オブ・ガバメント)の略である。

彼が居なくなれば、FBIとCIAの同盟も終わりを告げて、犯してきた罪が国民に知られることになる。

ケネディは、ベトナム政策も変えようとしていた。

プラウティはこう語る。

「ケネディは、全ての兵員をベトナムから撤退させる決意だった。

 ヴィクター・クルラック少将にベトナムに行くよう命じ、『我々が撤退する時に
 誰に引き渡したらよいか見極めろ』と命じた。

 クルラックは調査して、ズオン・バン・ミン将軍が良いと答えた。」

1963年9月にクルラックは、ロバート・ケネディに対し、南ベトナムの悪名高い指導者ゴ・ジン・ジエムを「ベトナムから空路で脱出させるように」と通報した。

これについては、次のような提案がなされた。

すなわち、ローマ法王がゴ・ジン・ジエムの兄弟であるジエム枢機卿を呼び、平和的に権力を委譲させるというものである。

ケネディは、マックスウェル・テイラー将軍とマクナマラ国防長官をベトナムに送り、
「米軍撤退を正当づける報告を作成するように」と命じた。

現地報告がケネディに送られ、彼はそれを承認してNSAM263号の作成にかかった。

プラウティは語る。

「263号計画でケネディは、アメリカ軍人を撤退させるだけでは満足せず、
 アメリカ人全員を立ち退かせることを望んだ。

 CIAの工作員は1945年からベトナムに居たから、CIAは怒り狂っていた。」

263号が公開された後、63年11月10日にランズデール将軍の命令でプラウティは南極に派遣された。

ケネディの警護を務めた事もある彼は、ケネディ暗殺の時には国外に出されていたのである。

プラウティは、ケネディ暗殺の日にダラスで撮られた写真を出し、そこに写された後ろ姿の男を示して「これはエド・ランズデールに間違いないと思う」と言った。

ケネディ大統領は、キューバとの関係も変えようとしていた。

キューバとの交渉を始め、フランスのル・エクスプレス誌の記者ジャン・ダニエルに協力を求めた。

ダニエルをホワイトハウスに招き、次の伝言を託した。

「キューバの受けた苦しみの少なくとも一部は、アメリカのとった政策の結果である。

 私はアメリカの責任を認めよう。バチスタはアメリカが犯した多くの罪の化身なのだ。
 この罪に対して償わなければならない。

 私はカストロのシエラ・マエストラ宣言を承認した。」

63年11月19日にダニエルはカストロとハバナで会い、6時間にわたる会談を行った。

カストロは、ケネディの言葉を熱心に聞いたという。

歴史を振り返ると、アメリカは米西戦争に続く4年間キューバを軍事占領し、その後のキューバはアメリカ資本に所有された。

キューバ人は餓死寸前の暮らしで、独裁者バチスタはユナイテッド・フルーツ社などのアメリカ資本に有利な取り決めを結び続けた。

ダニエルによると、カストロは次のように話した。

「ケネディが正直に話していると信じよう。彼は資本主義と社会主義が共存しうる事を
 理解するリーダーになれる可能性がある。」

63年11月22日にダニエルとカストロは、カストロ宅で昼食をとっていた。

そこにケネディ暗殺のニュースが入ったが、カストロは「これは悪いニュースだ」と何度も繰り返した。

その後ロバート・ケネディは、マッコーンCIA長官に「兄を殺したのはCIAか?」との疑問を突きつけた。

マッコーンは否定した。

ジョンソン新大統領は、ベトナムからアメリカが撤退するのをやめた。

64年3月にはNSAM288号に署名したが、それはベトナム戦争から去ろうとしていたケネディの計画を否定する内容であった。

イランでは、CIAと深く結ぶ国王がケネディの死を喜んでいた。

サバク(イランの秘密警察)のアメリカ担当責任者は、こう書いている。

「ケネディ暗殺は国王を大いに喜ばせた。ケネディが国王に社会改革をするように
 プレッシャーをかけていたからである。

 国王がお祝いをした事を、私はハッサン・パクラバン将軍(当時のサバクの長官)から
 聞いた。」

ジョン・ストックウェルはNSCのアンゴラ対策チームの責任者を務めた人物だが、こう語っている。

「ケネディ暗殺は、CIAと亡命キューバ人が実行した。

 CIAがケネディを殺した動機は、次の3つの政策にあった。

 ①ベトナム戦争から撤退しようとしていた
 ②石油産業の減価控除を削減しようとしていた
 ③公民権の拡大に乗り出していた 」

ストックウェルは、「CIAの上層部がケネディ暗殺を主導した」と結論している。

ロバート・ケネディも、兄の暗殺にCIA高官が関わったと疑っていた。

スッパ抜きで知られるコラムニストのジャック・アンダーソンは、CIAにコネがある。

彼は1977年10月3日付ワシントン・ポストのコラムで、「アジアのアヘン業者がアメリカに密輸する際、CIAが手を貸している」と暴露した。

78年1月4日付ワシントン・ポストでも、「CIAが要人暗殺のためマフィアの殺し屋を募集していた。外国の指導者を殺すチームを創設したいと考えている」と報じた。

アンダーソンは、CIAが日常的に法律違反しても起訴されない理由を、こう説明している。(76年11月15日付ワシントン・ポスト)

「20年以上にわたり、司法省はCIAの犯罪を見逃している。重罪ですら黙認されている。

 CIAに訴追妨害の権利や安全保障の名の下に犯罪を隠しておける権利を与えた、
 1954年のCIAと司法省の合意。

 これ以来、司法省のCIAに対する手加減が始まった。

 55年に議会は、政府機関の長に『職員の違法行為は司法省に報告すること』を
 義務づけたが、CIAは従っていない。」

(2018年11月24日&26日に作成)


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