ハント対リバティ・ロビー裁判②
マーチェッティと彼の記事

(『大がかりな嘘』マーク・レーン著から抜粋)

『ハント対リバティ・ロビー訴訟』において、ヴィクター・マーチェッティは欠くことの出来ない証人だが、第一審では証言を拒否していた。

陪審員を納得させるためにも、マーチェッティに証言してもらうしかないと、私は考えていた。

1984年3月12日に、私は彼と会った。

彼はジョン・マークスとの共著でCIAの内幕を書き、裁判所が公表の差し止め命令を出したので大騒ぎになり、それ以来一部の人々のヒーローになっていた。

マーチェッティはスポットライト紙に寄稿し、その記事をハントが訴えたわけだが、記事の内容は次のものだった。

『CIA、ハントのケネディ暗殺関与を確認へ』
(1978年8月14日付)

(筆者のマーチェッティ氏は、14年間にわたってCIAに勤務し、
 最後の3年間はリチャード・ヘルムズ長官の補佐官を務めた
 人物である)

数ヶ月前にあたる3月、バージニア州ラングレーのCIA本部で、ある会議が開かれた。

この会議で決まったのは、3月後半から行われる下院の暗殺調査の特別委員会に向けて、巧妙な「限定暴露」作戦を展開するというものだ。

「限定暴露」というのはスパイ業界の用語で、秘密を隠せなくなった場合に、真実の一部を自ら公表し、その一方でもっと重要な別の秘密を引き続き隠す手法である。

秘密の一部が明らかになると、たいていの人々はその新情報に夢中になり、事件をさらに追及しようとしなくなる。

我々は今後2ヵ月間に、ケネディ暗殺について新事実を知るであろう。
しかし、それは表面上の事実で、関与したと名指しされる人物の多くはすでに死亡しているはずだ。

「限定暴露」の古典的な例は、CIAが2年前にチャーチ委員会を誤魔化したものだ。

チャーチ委員会は、CIAの行った外国指導者の暗殺や麻薬取引や対マスコミ工作について、CIAが明らかになってもいいと判断した事しか究明できなかった。

下院の暗殺調査で暴かれる人物の中心は、ウォーターゲート事件で有名となったE・ハワード・ハントであろう。

CIAはハントを生贄にする事を決めた。

CIAは、ハントが(ウォーターゲート事件で)逮捕された後にCIAを強請ったとして、ハントに腹を立てている。

加えて、ハントは弱みのある人物である。

彼の妻ドロシーは、シカゴで起きた飛行機事故で死亡したが、消息筋によると彼女はハントと離婚しようとしており、夫に反旗を翻そうとしていたという。

このため彼女の死について、多くの人が心穏やかでないものを感じている。

さらにハントは、ケネディ暗殺のあった日のアリバイが成立しなくなってきている。

『アメリカのクーデター』の著者、A・J・ウェーバーマンとマイケル・キャンフィールドは、ケネディ殺害直後にディーリー・プラザで逮捕された浮浪者風の3人の男の写真を公表した。
3人の男のうち、1人はハントと断定し、1人はフランク・スタージスと指摘している。

これに対しハントは損害賠償請求の訴訟を起こし、「暗殺当日はCIAに出勤しワシントンにいた」と主張した。

しかし、CIAに出勤した事実はなかった。

するとハントは、「その日は休暇でチャイナタウンの食料品店で買い物した」と述べた。

だが、ハントの言う食料品店は存在しなかった。

この時点でハントは、「1ドルを支払えば訴訟を撤回する」と申し出たが、ウェーバーマンらはハントのアリバイ崩しを続けて完全に粉砕した。

今回CIAはハントを見限り、暗殺調査の委員会は数週間前にCIAから部内メモを受け取った。

そのメモは1966年のもので、「いつの日か我々は、ハントがケネディ暗殺の日にダラスにいた事を釈明しなければならないであろう」という内容だった。

ハントとフランク・スタージスに加えて、ケネディ暗殺に参加したと名指しされるのは、元CIA工作員のゲリー・パトリック・ヘミングである。

彼はスタージスと同様に、CIAのスパイとしてカストロの下で働いていたが、後に亡命キューバ人たちとカストロ暗殺作戦に従事した。

ヘミングをケネディ暗殺に結び付けるネタは2つある。

1つは、カストロの元愛人であるマリータ・ロレンツ(彼女はCIAで働いた時期がある)が、「ヘミングもケネディ殺害を命じられた秘密チームの一員である」と証言したことだ。

もう1つは、ヘミングが海兵隊軍曹として日本の厚木にあるCIAのU-2基地に勤務していた時、その部下にオズワルドがいた事である。

(※オズワルドは厚木でスパイの訓練を受け、それからソ連に偽装亡命した)

気になるのは、犯人として名指しされる者がすべて、何らかの理由ですでに名誉を汚した者である事だ。

また彼らは、全員が右翼として知られる人物である。

(※マーチェッティの記事はここまで)

私はマーチェッティから、矛盾した印象を受けた。

愛想が良いのだが、胡散臭く捉えどころがなかった。

長時間のインタビューをしたが、依然としてCIAの信条に身を捧げていることが浮き彫りになった。

マーチェッティは、彼の記事で予言したことが起きなかったにも関わらず、記事の内容は正しいと確信していた。

彼は記事のために作成したノートを見せてくれたが、「J・A」「B・C」「A・J」というイニシアルが至る所にあり、その人物が情報源だった。

「A・J」は、A・J・ウェーバーマンだった。

ウェーバーマンは、ケネディ暗殺の本を出し、その中で「ハントとCIA工作員がグラシー・ノールから立ち去ろうとしている写真」を取り上げていた。

私はこの写真を入手したが、それはハントの写真ではなかった。

ハントは、ウェーバーマンを相手取って訴訟を起こし、『ハント対サード・プレス裁判』として知られる裁判が1978年に行われた。

その時ハントは、マーチェッティにも証人として出頭を求め、マーチェッティによるとCIAは「石の壁になれ(何も言うな)」と勧めた。

マーチェッティは、ハントとケネディ暗殺を結び付けるCIAメモのことを、米下院の暗殺調査特別委員会に知らせたという。

彼の書いた(上記の)記事について聞いていくと、情報源はウェーバーマンとウィリアム・コーソンだった。

マーチェッティはコーソンを「ビル・コーソン」と呼んでおり、「B・C」はコーソンのことだった。

また「J・A」がCIA高官のジェームズ・アングルトンだというのも判明した。

さらに質問していくと、マーチェッティは実はメモを一度も見たことがなく、「コーソンから聞いたにすぎない」と認めた。

私はここまで聞いてきて、彼にこう忠告した。

「あなたの証言抜きでは、この訴訟に勝てない。

 あなたは証人となり、正直に情報源を明らかにしなければならない。」

マーチェッティは肩をすくめて、「オーケー、証言しよう」と言った。

マーチェッティが「コーソンが情報源である」と証言すれば、間違いなくハントの弁護士はコーソンの証言を録取しようとする。

だがコーソンは特殊な人物だ。正直に答えない可能性がある。

彼の一筋縄ではいかない経歴を調べてみて、CIAメモについて否定する可能性があると感じた。

(コーソンの経歴については、『ハント対リバティ・ロビー裁判③』の記事を見て下さい)

それをマーチェッティに伝えると、彼は「もう一度、情報源に当たってみる」と言った。

その後、マーチェッティは「再びコーソンと話をし確認したが、メモの話は真実である」と報告してきた。

ただしコーソンは「自分が情報源であることを明らかにしてほしくなかった」と言い、迷惑がっていたという。

(2018年11月27日に作成)


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