ハント対リバティ・ロビー裁判⑤
ジョゼフ・トレントの記事と彼の証言

(大がかりな嘘 マーク・レーン著から抜粋)

マーチェッティの記事は、情報源の1人はウィリアム・コーソンだが、コーソンはその事を否定している。

私はコーソンが別の人間にも同じ情報を話した可能性を考え、マーチェッティの記事に似た内容のものを捜し出すことにした。

私はケネディ暗殺事件の後に『市民調査委員会』という組織を設立し、多くの市民と情報交換してきた。

その活動で知り合った女性から、「1978年に当時CIA長官だったスタンスフィールド・ターナーがダラスで演説したが、そこでハントがケネディ暗殺の日にダラスに居たというCIAメモに言及した」との情報を得た。

調べたところ、AP通信の原稿があり、ターナーにCIAメモのことを質問した記者がいた事が分かった。

さらに、その記者が質問するきっかけになったのは、78年8月20日付のサンデーニューズ・ジャーナル紙のジョゼフ・トレントとジャッキー・パワーズの記事だったと分かった。

トレントとパワーズの記事は、次のものだった。

『JFK暗殺の日にハワード・ハントがダラスに?』

CIAの秘密メモによると、ハワード・ハント氏はケネディ大統領が暗殺された日にダラスに滞在していた。

一部のCIA筋は、ハント氏がオズワルド殺害の任務を命じられていたと推測している。
(オズワルドはCIA計画では、ケネディ暗殺後に単独犯としてCIAスパイの警官に
 射殺されることになっていました)

ハント氏は、ケネディ暗殺に先立つ数週間、CIAメキシコ・シティ支局の支局長代理を務めていた。

オズワルドはダラスに向かう直前、メキシコ・シティを訪れたことになっている。

この1966年の秘密メモは、下院暗殺特別委員会が入手している。

メモにはリチャード・ヘルムズとジェームズ・アングルトンの署名もある。

暗殺特別委員会の近い筋によると、メモは次のことを明らかにしている。

①ヘルムズとアングルトンは、ハントが暗殺当日にダラスに居た事を秘密にして
 おかなければならないと話し合った

②2人は、ハントが別の場所に居たという偽装の話を考慮しなければならないと感じた

我々の取材に対し、ハント氏はケネディ暗殺の日にダラスに居たことを否定し、メキシコ・シティにも1961年以降は行ってないと述べた。

ハント氏は、暗殺の日はワシントンに居たとし、「その日は昼までで仕事はやめ、ワシントンの繁華街に買い物に出かけて、妻と一緒に中華料理店で夕食をとった」と述べた。

だがCIA筋は、この話は偽装の作り話だという。

ヘルムズ氏はこのメモについて、「日付を思い出す能力の欠如により答えられない」と委員会で述べたという。

ヘルムズ氏は別件で偽証罪に問われ、昨年に有罪判決を受けている。

ヘルムズ氏とアングルトン氏に取材しようとしたが、連絡がとれなかった。

両氏はケネディ暗殺への関与で調査対象となっており、CIAオタワ支局長だったクリーブランド・クラム氏が調査を任された。

ある調査官は、その調査をしていてこのメモにぶち当たったのではないかと見ている。

ハント氏は、ウォーターゲート事件に関与した罪で服役中の1975年12月に、ニューヨーク・タイムズ紙とのインタビューで、少人数で構成されるCIA暗殺チームの存在を詳述した。

ボリス・パッシュ大佐が責任者とされるこの暗殺チームは、二重スパイの疑いのある者を殺すよう命じられていた。

CIA筋によると、パッシュ大佐の暗殺チームはアングルトン氏直属だった。

アングルトン氏は、ウォーレン委員会がケネディ暗殺を調査していた時、委員会のメンバーでありかつて上司だったアレン・ダレスと定期的に会っていた。

ダレスは週1回、アングルトンに調査の方向を説明し、それはアングルトンの側近であるレイモンド・ロッカにも伝えられた。

ロッカ氏の元夫人は、当時にやはりアングルトン氏の下で働いていたが、現在はクラム氏の調査チームの一員である。

(トレントとパワーズの記事はここまで)

この記事で重要なのは、1966年のCIAメモの存在を明確に指摘している事だ。

マーチェッティに会い、この記事のことを伝えると、自分の記事と似た話が報じられていたことに驚いた。

2つの記事は同じ年に発表されており、トレントもコーソンから情報を得ていたと考えられる。

トレントの経歴をざっと調べたところ、正直で有能な記者であると確信した。

私は彼の証言を録取することにした。

ジョゼフ・トレントに連絡を取ってみると、彼はリバティ・ロビー社に対する反感から口をきこうともしなかった。

そこで私は、トレントに召喚状を送達した。

彼は1984年6月28日に、証言録取のため私の事務所に現れた。

トレントの代理人を含め5人の弁護士が立ち合った。

トレントは「記事を書いた時の資料はみな処分してしまった。記事の情報源は明かせない」と言った。

私は彼の書いた記事について、段落ごとに質問していった。

彼はそれぞれの段落はどれも真実であると証言した。

「記事を書く前にハントにインタビューしたか」と訊くと、「した」と答えた。

私がウィリアム・コーソンの名前を口にすると、彼は気になる様子だった。

「コーソンを知っているか」と尋ねると、「知っている」と言う。

そして彼が記事を書いた78年8月にコーソンと会ったか訊くと、「会った」と答えた。

私はここで、5年前にアングルトンが行った宣誓証言をトレントに読んで聞かせた。

その証言は、ハントがA・J・ウェーバーマンらを名誉毀損で訴えた『サード・プレス裁判』の際のものだ。

アングルトンは次のように証言していた。

「記事が出てから、私はトレントからの電話を受けた。

 トレントは、ウィリアム・コーソンとかいう人物のオフィスから電話しており、
 コーソンについてはペントハウス誌の代表で海兵隊の元大佐であると述べた。」

この証言が朗読されると、トレントの弁護士は「この件には答えてはいけない」ときつい口調で注意した。

私はこの証言録取にあたり、トレントのリバティ・ロビー社へのあからさま敵意を考慮して、控え目な目標を設定していた。

そこで、しぶしぶながら主尋問を終えた。

次に、ハントの弁護士であるウィリアム・スナイダーが反対尋問をした。

スナイダーは、私が踏み込まなかった所に突っ込み、嫌味な口調でトレントの信用性を弾劾しようとした。

「あなたは1966年のCIAメモを見たことがあるのですか」と訊いたのだ。

すると驚くことに、トレントは「あります」と答えたのである。

スナイダーは顔を殴られたかの様に、頭を後ろにのけぞらした。

これまで疑問視されていたメモが、トレントの証言で生命が吹き込まれた。

スナイダーはメモについて詳しく訊くことで、打撃から立ち直ろうとした。

Q メモはどのようなものでしたか。

A 普通の紙にタイプライターで書かれたもので、縦11インチ、横八・五インチほど
  でした。

Q あなたの記事には、アングルトンとヘルムズがイニシアルで署名していたとありますが。

A その通りです。私は他の書類で2人のイニシアルを時々見たことがあります。
  そのイニシアルと同じものでした。

スナイダーの質問が終わると、私は再主尋問を行った。

Q ヴィクター・マーチェッティを知っていますか。

A 知っています。

Q 1978年8月の時点(記事を書いた時)で知っていましたか。

A いいえ。

Q だとすると、マーチェッティはあなたの記事の情報源ではなかったと言えますね。

A 情報源に踏み込むつもりはありませんが、マーチェッティを知らなかったのは
  間違いありません。

Q あなたは自分の書いたこの記事の内容を真実だと信じていますか。

A はい。

トレントの答えは、1つ1つがCIAメモの実在を強める根拠となった。

(2018年11月28~30日に作成)


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