ハント対リバティ・ロビー裁判⑥
やり直しとなった第一審の顛末、そこでのハントらの証言

(『大がかりな嘘』マーク・レーン著から抜粋)

ジョゼフ・トレントの証言録取をしたが、次はE・ハワード・ハントを尋問する(証言録取する)のが適切と思えた。

ハントは、ウォーターゲート事件として知られる裁判で、多くの証言をしていた。

彼はウォーターゲート・ビルでの不法行為で刑事訴追に直面し、(雇い主である)ホワイトハウスに助けてもらおうと考えて、ニクソン大統領に脅しのメッセージを送った。

ハントがニクソンに送りつけた書簡には、次の内容が含まれていた。

「ウォーターゲート事件は、ホワイトハウスの指示で行われた非合法の謀議の1つにすぎない。

まだ明るみに出ていない犯罪行為は、立証可能である。」

E・ハワード・ハントの証言録取をする前に、私は『ハント対リバティ・ロビー裁判』の第一審の裁判記録を精読した。

読者の皆さんに、ここで第一審の主な顛末を説明しよう。

この裁判は、1981年12月15日~17日にマイアミ連邦地裁で行われたが、被告のリバティ・ロビー社は代理人(弁護士)としてマイルズ・マッグレーン三世を雇った。

マッグレーン弁護士は、依頼人と相談もせずに、ハントの弁護士のエリス・ルービンと話をし、当事者間合意を成立させようとした。

マッグレーンは、ハントがケネディ暗殺の日にダラスに居なかったことを認めて、謝罪してしまった。
ハントとルービンは、その謝罪を受け入れた。

当事者間合意とは、一方の主張を本当であると認めて合意することを指す。

これが陪審員に認められると、もはや事実関係を立証したり、あるいは反証したりする必要がなくなる。

この裁判は結局、やり直しとなったわけだが、問題はこの当事者間合意がいつまで有効かだった。
(※これについては後の別記事に出てきます)

第一審では、双方が行った証言録取は極めて少なかったが、マッグレーンはハントの証言を録取していた。

ハントはその際、次の証言をした。

「ウォーターゲート・ビルへの不法侵入に加わるように、フランク・スタージスを徴募した。

ビルで侵入者たちが逮捕された後、ゴードン・リディが電話してきて、国外に逃げろと指示してきた。

私は帰宅して荷物をまとめ始めた。
するとFBI捜査官と名乗る人物が2人訪ねてきて、職務質問をしてきた。私は話すことを拒否した。

その後、国外に脱出する直前にリディが再び電話をかけてきて、欧州へ旅行せよとの指示を撤回してきた。」

ハントは、こうも証言している。

「1972年9月の中頃から、私の夫人と弁護士が、『誰だか分からない送り主』からかなりの金を受け取り始めた。

この金は、ウォーターゲート侵入事件の直後から始まり、72年11月の大統領選挙の少し後まで続いた。」

この送り主は、ニクソン大統領なのが明らかである。

ハントの妻ドロシーは、1972年12月にシカゴで起きた飛行機墜落事故で死亡した。

ハントは、「妻の死に関与したのではないか」との質問に対しては激怒した。

妻の死に関わっているとの噂の元になったのは、シカゴの私立探偵シャーマン・スコルニクだった。

スコルニクは、「ドロシーは離婚しようとしており、事故の際に多額の現金を所持していた」と主張していた。

証言録取でハントは、「妻が我々の金のかなりの額を持ち出していた」と認めた。

私は、かなりの金額を所持していた点ではスコルニクが正しかったのを知り驚いた。

この第一審のハントの証言録取で最も興味深いのは、ハントの子供たちのショックを述べた部分だ。

1978年にマーチェッティの記事が発表されると、ハントの子供たちはすでに成人だったが、父親と対決し「この記事は本当か、お父さんはケネディ大統領が殺された日にダラスに居たのか」と問いつめた。

ハントは、ダラスに居なかったことを証明しようと努めたが、家族関係が壊れかけたという。

ハントの後妻も記事に衝撃をうけ、妻と子供から質問されたハントは「私にとって耐えがたいほどの精神的重圧だった」と述べた。

ハントは正式裁判(法廷)でもこの話を持ちだし、「マーチェッティの記事で家庭不和になり、多大の損害を受けた」と証言した。

この正式裁判では、当事者間合意が成立したが、ハントの弁護士ルービンはそれを無視して(もう立証しなくていいのに)、ハントに1963年12月22日(ケネディ暗殺の日)にどこにいたかを繰り返し質問した。

この行為は後に、致命的な打撃をハントにもたらすことになった。
(※後に出てくるが、この時のハントの証言を、著者のマーク・レーンが裁判で活用することになる)

ハントは正式裁判(法廷)で陪審員に経歴を説明したが、こう述べた。

「私はピッグズ湾侵攻の際は、CIAの政治顧問を務めた。

ウォーターゲート・ビル侵入の段取りもしたが、ニクソン大統領の命令を実行したにすぎない。

CIAのメキシコ・シティ支局長を務めたこともある。

(CIAを辞めた後は)ワシントンの広告代理店に勤めることになったが、それはロバート・E・マレン社で、厚生教育省やモルモン教会やハワード・ヒューズ・ツール社を代理している。

マレン社の副社長兼企画局長もしている。」

ハントの弁護士ルービンは、ハントの隣人でCIAの同僚でもあったウォルター・クズマクの証言録取を行っていた。

証言録取は1981年12月7日に行われたが、クズマクはこう証言した。

「私は27年間、CIAのために働いています。

ワシントンでハントと一緒に働いていた時は、毎日のように顔を合わせていた。

私たちはワシントン郊外で4~5軒おいた隣同士でした。

ケネディ暗殺の日、私は朝オフィスに出勤し、昼食の時間には同僚とオフィスのある角を曲がった所にあるデュークジーバートで昼食しました。

午後1時か1時半に店を出てオフィスに戻る途中、車が通りかかって、ハワードとベティに気付きました。

いやベティではなく…」

ルービン弁護士 「ドロシー?」

「そう、ドロシーです。

私は2人に手を振りました。
彼らの乗っていた車はシボレーでした。」

クズマクは、「ハントとほぼ毎日カープールしていて、出勤や帰宅時にどちらかの車に相乗りしていた」とも語った。

正式裁判では、数日前までに双方の弁護士が、それぞれの説示案を判事に提出する。

この第一審では、ルービンの提出した説示は、名誉毀損の法律について明らかに間違った提案をしていた。

理由は分からないが、おそらく判事を騙そうとしたのだろう。

ルービンの説示は現行法と似ても似つかぬ代物だったが、マッグレーンは異議を申し立てず、判事もそのまま陪審員に朗読した。

そして陪審員はハントの勝訴を評決して、損害賠償金は65万ドルとなった。

リバティ・ロビー社は高裁に控訴したが、控訴審を担当した3人の判事は「説示が間違っている」と認定し、第一審を破棄した。

ハントはルービンに獲得した賠償金の40%を支払う契約をしていたので、この破棄はルービンにとっても痛かった。

ハントはルービンを解雇し、ウィリアム・スナイダーらを雇った。

そしてリバティ・ロビー社も、新しい弁護士として私を雇った。

(2018年11月30日に作成)


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