名誉毀損の裁判、その歴史と難しさ

(『大がかりな嘘』マーク・レーン著から抜粋)

名誉毀損の裁判は、法学者のほとんどが廃止もしくは原告の大幅な権利制限を唱えている。

大企業を顧客にしている法律事務所と、米国自由公民権連盟も、廃止を訴えている。

18世紀のイングランドでは、文書による名誉毀損で訴追された場合、その文書の内容が真実であっても無罪の根拠にならなかった。

当時の著名な法律家だったマンスフィールド卿は、「真実であればあるほど、毀損の罪も重大なり」という格言を残している。

この言葉は、言論の自由へのあからさまな攻撃である。
だが当時はこれが常識だった。

当時のイングランドの有名な名誉毀損裁判でも、判決で「文書の内容が真実か否かは重大な論点ではない」と明確に述べている。

この原則はアメリカの13の植民地にも適用されて、1776年のアメリカ独立以後も多くの州で採用された。

こうした信念を最初に覆そうとしたのが、1735年8月にニューヨークの裁判でジョン・ピーター・ゼンガーを弁護したアンドルー・ハミルトンである。

ゼンガーは自ら創刊したウィークリー・ジャーナルで、ニューヨーク植民地総督のウィリアム・コズビーを激しく非難した。

コズビーは国王侮辱罪でゼンガーを逮捕し、文書名誉毀損罪で告発した。

裁判中、ドランシー首席判事は「記事の内容が真実であってもゼンガーを無罪にする理由にはならない」と陪審員に説示した。

イングランド政府は、内容が真実のほうが扇動的であり罪は重いと考えていたのだ。

しかしハミルトンは、熱弁をふるって『真実と自由の尊さ』を切々と訴えた。

そして陪審員たちは、彼の主張を理解し、ゼンガーを無罪とする評決を下した。

これによりアメリカ植民地に出版と言論の自由が打ち立てられ、ゼンガーはその後も発行を続けた。

『人々は真実を語り出版する権利を与えられるべきだ』というハミルトンの主張は、人々の心に浸透していき、アメリカでもイギリスでも広まっていった。

時は経って1791年12月15日、ハミルトンの言葉はアメリカの憲法修正第1条として結実した。

ジェームズ・マジソンは次のような決意のもとに修正第1条を起草した。

人民は、自らの意見を話し書き出版する権利を、奪われたり制限されたりしてはならない。

出版の自由は、自由を守るために、これを侵してはならない。

草案を元に批准された条文は次の通り。

議会は、宗教の制定に関する法、宗教の自由な活動を禁ずる法を作ってはならない。

また、言論・出版の自由、人民が平穏に集会を開く権利、是正を求めて政府に請願する権利を奪う法を作ってはならない。

その後、フランスとの関係が悪化し、洋上でアメリカ船が襲われると、連邦党が以下のような「外国人および治安条令」を制定した。

合衆国、上下両院、大統領に対して、その名誉を汚す意図で虚偽の文書を執筆・出版した者、それを援助した者は、2千ドル以下の罰金および2年以下の禁固をもって罰する。

この条例は、国内の親フランス派を抑える目的だったが、憲法修正第1条と矛盾するものだった。

結局ほぼ使われず、有罪を宣告された10人は後に恩赦となり罰金も返還された。

文書による名誉毀損の論争に終止符を打ったのは、1804年の裁判だった。

被告はハリー・クロスウェルという人物で、ワスプという新聞の主筆である。

彼は、トマス・ジェファソンやジョージ・ワシントンを非難する記事を書き、治安を乱したとして告発されたが、法廷で「記事が真実だ」と訴えた。

州裁判では判事が「真実は、虚偽と同じほど危険である可能性がある。文書の真実性は争点とならない」と判決した。

クロスウェル被告はこれを不満として控訴し、控訴審ではアレクサンダー・ハミルトンが弁護を担当した。

アレクサンダー・ハミルトンは、70年前のアンドルー・ハミルトンを彷彿とさせる熱弁で、「正当な目的ならば、人物についても政策についても、罪に問われることなく真実を出版できる。それこそが出版の自由である。」と主張した。

さらに彼は、「判事だと政府への忠誠心で判決が左右される。判断は陪審員が行うべきだ。」と訴えた。

結局クロスウェルは有罪となったが、ハミルトンの考え方はやがて名誉毀損裁判の基本原則となった。

1825年頃までには、真実の重みと陪審制度の妥当性が認知され、名誉毀損裁判の基準が固まった。

真実を語る者は、たとえ訴えられても勝ちが保証され、政府や財閥などが相手でも追及したり非難することが可能となった。

この原則は、それから百年以上も続き、言論の自由に貢献した。

ところが1960年代に入ると、名誉毀損の判断基準が後退し、陪審の判決が稀になり、真実性も争点とならなくなってしまった。

連邦最高裁も、「陪審ではなく判事が裁定し、真実性は無関係」という、大英帝国が植民地に押し付けた考え方に逆戻りした。

判断基準から真実性を除外する先駆けとなったのは、『ニューヨーク・タイムズ対サリヴァン裁判』である。

1960年代の初頭、アメリカ南部の各地でキング牧師を先頭に公民権運動のデモが行われた。

1960年3月29日、ニューヨーク・タイムズに著名人64人の署名が入った全面広告が載った。
これはアラバマ州モンゴメリーで行われている人種差別への抗議メッセージを掲げたものだったが、あいにく一部に事実でない記述があった。

そこでモンゴメリーの3人の公安委員の1人であったサリヴァンは、ニューヨーク・タイムズと広告主を相手に訴訟を起こした。

サリヴァン自身が広告で名指しされたわけではないので、彼の訴えは不当に思われたが、彼は「自分が監督権をもつ市警察への虚偽の記述は、私の名誉を汚すものだ」と主張した。

アラバマ州の高裁は、サリヴァンに50万ドルの賠償金を認めた。

すると残りの公安委員2人と、アラバマ州知事も、ニューヨーク・タイムズに250万ドルの賠償を求めて訴えた。

64年にサリヴァン訴訟は連邦最高裁にまで上告された。

本来なら連邦裁判所が扱うものではなかったが、大企業が窮地にあるということで介入し、全員一致でサリヴァンの賠償請求を却下した。

この時に連邦最高裁が出した判断基準は、「公人が名誉毀損の訴えをできるのは、悪意が認められる場合のみ」というものだ。

記事が真実かどうかは問題にされなかったのだ。

最近、情報公開法のおかげで明らかになったが、CIAやFBIはニューヨーク・タイムズを含む大手マスコミを利用して、中傷的な嘘の情報を流し、狙った人物の信用失墜を図ってきた。

マスコミ側も、かなり積極的に協力してきたのである。

標的にされたのは、例外なく、政府が隠している事実の暴露を試みた人物であった。

標的にされた人物が名誉毀損訴訟という手段で名誉回復と損害賠償を求めても、ほとんどの訴えは却下されてしまい汚名は晴らせない。

マスコミによって汚名を着せられ名誉を失った代表例として、『ハーバート対ランド訴訟』を見てみよう。

アンソニー・ハーバート大佐は、ベトナム戦争中に、戦場で自ら目にした米軍の戦争犯罪や残虐行為をしかるべき機関に報告した。

ところが彼は任務を解かれて、陸軍から能力に問題ありと評価されてしまった。

その頃、CBSはウォルター・クロンカイトを筆頭に、声高に戦争を支持していた。

その報道はしばしば不正確で、誇らしげに読み上げられた敵兵の戦死者数には、実は農民や子供や老人が数多く含まれていた。

CBSは、ハーバート大佐がベトナム戦争の正当性を傷つけた事が気にくわなかった。

そして番組「シックスティー・ミニッツ」の枠で、「ハーバート大佐の裏切り」と題するものを放送し、彼を激しく非難した。

番組プロデューサーはバリー・ランドで、ランドはアトランティック・マンスリー誌に記事も寄稿した。

ハーバートは、「番組と記事は、悪意を持って私を嘘つきと決めつけ、陸軍での自分の無能ぶりを隠すために戦争犯罪問題を持ち出したと報じた」として、名誉毀損訴訟を起こした。

ハーバートの弁護士は、虚偽と中傷に満ちた番組を作った意図をランドに問いただしたが、ランドは回答を拒否した。

連邦最高裁が6対3で「ランドは質問に答える義務がある」との判断を下すと、マスコミは一斉に轟轟たる抗議の声をあげた。

「血にまみれた言論の自由」という題で最高裁を批判したロサンゼルス・タイムズの社説は、その代表だ。

巨大化したマスコミの傍若無人ぶりは、今や目に余るものがある。

真実を語る者の拠り所だった憲法修正第1条は、今では嘘つき言論界の逃げ場所に変わってしまった。

こういう現状から見れば、『ハント対リバティ・ロビー裁判』は古典的な良質のものだった。

私たちは陪審員に事実を聞いて判決してもらい、記事の真実性を判断してもらった。

名誉毀損訴訟はそうあるべきだと私は信じている。

(2018年12月11日&12日に作成)


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