ハント対リバティ・ロビー裁判⑭
ハワード・ハントの証言① 主尋問

(『大がかりな嘘』マーク・レーン著から抜粋)

『ハント対リバティ・ロビー裁判』で最初に証言席に着いたのは、ハワード・ハントである。

彼の弁護士スナイダーの主尋問は、巧みにハントを誘導していった。

その狙いは、ウォーターゲート事件で犯罪者の烙印が押されたハントを、実は誠実で勇敢な愛国者だと陪審員に思わせることだった。

Q ハントさん、生年月日をおっしゃって下さい。

A 1918年10月9日です。

Q 学歴を手短に述べていただけますか。

A 高校まではニューヨーク州の公立校に通いました。

  そして一部補助の奨学金を獲得し、ロードアイランド州の
  ブラウン大学に入学しました。

Q 卒業後はどうされましたか。

A 6週間もしないうちに海軍士官の養成コースに応募し、
  海軍兵学校で訓練を受け、1941年5月に任官しました。

Q 海上任務についたのですか。

A ええ。北大西洋艦隊の駆逐艦の砲撃士官を務めました。

  洋上で負傷して、42年秋に治療目的の除隊となりました。

Q その後はどうしたのですか。

A 初めはライフ誌の南太平洋特派員としてガダルカナル島に
  駐在しましたが、マラリアにかかりアメリカに戻りました。

  その後、陸軍航空隊に入り、ニュージャージーのフォート・
  ディックスで訓練を受けました。
  それから士官学校に入り、卒業して44年春に任官しました

Q 陸軍航空隊では軍務についたのですか。

A ええ。陸軍航空隊の情報訓練校に送られ、しばらくして教官の
  資格を得ました。

  すると戦略事務局(OSS)の人員補充担当者が訪ねてきました。

Q それでOSSに入局したのですね?

A はい。

Q どんな活動をしたのですか。

A 訓練を終えた後、中国へ派遣されて、日本軍の通信線を分断
  したり、車両を破壊したり、燃料貯蔵庫を爆破しました。

  こうした工作は、政府は関知しません。
  それが行われている事は認めないのです。

Q 公にならないのですね?

A 公開できるような活動ではありません。だから公表しません。

Q OSSの活動をやめたのはいつですか。

A 45年8月に日本に原子爆弾が落とされ、日本が降伏すると、
  私は部下を連れて山を越え、しかるべき経路をたどって
  アメリカに帰国しました。

Q 山を越え、とは何のことですか。

A 中国とインドを隔てるヒマラヤ山脈です。
  我々は飛行機で山脈を越え、陸軍の輸送船で母国に戻りました。

Q その時点で退役されたわけですか。

A はい。除隊して、グッゲンハイム基金から文芸活動に対する
  奨学金をもらう権利があったので、メキシコで1年かけて
  本を1冊書き上げました。

Q その本は出版されましたか。

A はい、タイトルはストレンジャー・イン・タウンです。

Q それからカリフォルニアへ行ったわけですね?

A 私はメキシコからアメリカに戻り、カリフォルニアにいる
  OSS時代の仲間を訪ねて、彼の自宅でしばらく世話になりました。

  当時、彼は映画の脚本家をしていて、私も手伝ってシナリオ
  ライターをしました。

  その後に東部に移り、マーシャル・プラン関係の職を得ました。

Q マーシャル・プランとは何ですか。

A マーシャル将軍が提唱し、トルーマン大統領が承認した計画で、
  ソ連の侵攻を阻む手段として、壊滅状態のヨーロッパ経済を
  再建するのが目的でした。

Q あなたの勤務地はどこでしたか。

A パリでアヴァレル・ハリマンの広報官を務めました。
  ハリマンは、マーシャル・プランのヨーロッパでの責任者でした。

Q そうしているうちに、あなたはCIAに勧誘されたのですね?

A 1948年も終わりに近い頃、フランク・ワイズナーに声を
  かけられたのです。

Q その時、CIAはすでに存在していましたか。

A 47年にトルーマン大統領がCIA設立法案に署名していました。

  当時は組織の再編途上で、人員を確保している段階でした。

Q あなたは49年から70年までCIAに勤務しましたが、
  その前半の時期について話して下さい。

A 1950年に、私はメキシコ・シティ支局長になりました。

Q 国内はFBI、国外はCIAが受け持つことになった、
  というのは正しいですか?

A 全く間違いありません。

レーン(著者) その質問は誘導尋問であり、異議を申し立てます。

  すでに多くの誘導尋問がありました。今までは遠慮していましたが、
  ここからは異議を申し立てます。

判事 異議を認めます。
   重要な論点について証人を誘導することを禁じます。

誘導尋問とは、証人に答え方を示唆したり、自分が先に答えを言ってしまう形の質問を指す。

誘導尋問は、主尋問では禁止されているが、反対尋問では許される。

スナイダーはここまでの尋問で、ハントが単なる下劣なギャングでないことを、しっかりと印象づけた。

ハントは奨学生として大学に合格し、グッゲンハイム基金の審査にパスして本まで出したことのある男というわけだ。

スナイダーの主尋問が続いた。

Q メキシコ・シティでは、どんな任務を与えられたのですか。

A 後にグアテマラ・プロジェクトとして知られる計画に
  起用されました。

  この計画の狙いは、グアテマラのマルクス主義の独裁政府を
  倒すことでした。

  私は、その工作の心理戦担当チーフでした。

Q どんな内容でしたか。

A グアテマラ民衆に対する心理工作です。
  デイブ・フィリプスという男も同じ担当でした。

  パンフレットを作ったり、空からビラを撒いたりして、
  カトリック教会の一部とも協力して、民衆に共産主義の正体を
  伝えました。

  決戦の日(クーデターの日)に、正しい選択をしてもらうためです。

Q 決戦の日はやってきましたか。

A はい。54年6月でした。
  ほとんど無血のクーデターで、共産主義は追放され、
  民主的選挙による政府に代わりました。

実際には、民主的に選ばれた政権(アルベンス政権)を、CIAが武力で倒したのであり、ハントの説明は事実ではない。

しかし陪審員は納得している様に見えた。

この後ハントは、家族に関する質問に答える中で、「自分はド・クルチエ侯爵夫人と結婚した。彼女はド・クルチエ侯爵と離婚して、私と結婚した。」と、訊かれてもいないのに口にした。

妻が貴族出身だと自慢するのはいかにも場違いで、陪審員たちも好い印象を持たなかったようだ。

続いてハントは、カストロ政権の転覆を狙ったピッグズ湾侵攻作戦について質問された。

彼はこの作戦の指導者の1人だったが、作戦の結末について問われるとケネディ大統領への怒りをむき出しにした。

「結局、米空軍の(キューバ侵攻軍への)援護は許可されず、
 上陸した兵士たちは殺されるか捕まった。

 生き延びた者達はインチキ裁判にかけられ、地下牢送りとなりました。」

その後ハントは、ダレスCIA長官(ピッグズ湾作戦の時にCIA長官だった人)について尋ねられると、(作戦の失敗後に)ダレスを首にしたケネディ大統領への憎悪を隠しておけなかった。

そして「ダレスは生け贄にされた」と語った。

ハントはケネディ暗殺の日にどこに居たかと尋ねられると、次のように証言した。

「その日はワシントンに居て、朝にいつも通りに出勤しました。

 正午ころ、自宅から妻が赤ん坊を車に乗せて職場にやってきて、
 私は妻と中華街へ行き、妻が買い物をしている間、
 赤ん坊と車の中で待っていました。

 そうやって車の中に座っていた時、ケネディ大統領が殺された
 というニュースが速報で流れたのです。

 妻が戻ってきて車を出すと、ラジオから政府職員は職場へ戻る
 必要はない、本日の午後いっぱい政府機関は公務を休止する、
 との告知が流れました。

 その少し後、コネチカット通りで同僚のウォルター・クズマクの
 姿を見かけました。

 それから学校に娘のケヴァンを迎えに行き、自宅に戻りました。

 すでに長女は学校から戻っていて、息子のセントジョンも
 小学校から帰ってきました。

 だから遅くとも15時には家族全員がそろいました。

 そして私たちはテレビに釘付けになり、ニュースを見続けました。

 どの家庭も同じだったと思いますが、私たちは週末の間ずっと
 テレビの前から離れませんでした。」

ハントは言葉に迷うことがなく、念入りにリハーサルした証言なのは間違いなかった。

だが私はこの証言を聞いて、裁判に勝ったと確信した。

スナイダーの主尋問は続き、今度はウォーターゲート事件について質問した。

Q ウォーターゲート事件では、あなたは何について証言を求められ、
  何について偽証したのですか。

A 私は1973年に罪状を認め、上下院や特別検察官、
  連邦検事など、様々な捜査に対して証言を行いました。

  簡単に言えば、ホワイトハウス上層部の関与について
  一切知らない、というのが私の主張でした。

  これは、ニクソン大統領の再選を実現させるためでした。

ハントのこの偽証は、金銭目当てだった事が、後に明らかになっている。

その点はスナイダーも取り上げたが、ハントは「ニクソンは再選された後、約束を破って私たち有罪となった者たちへの資金援助を止めた」と証言した。

スナイダーの次の質問には驚かされた。
証拠規則上、私には聞きたくても聞けない質問だったからだ。

Q あなたは、ニクソン大統領を脅迫したと非難されたことが
  ありますか。

A はい、ジョン・ディーンにそう非難されました。

  ディーン氏は若くて経験も浅く、工作員の世界の慣例も知らず、
  多額の予算請求にも慣れていないので、大統領の所へ行って
  『あいつらは100万ドルもゆすり取ろうとしている』と
  言ったのです。

  ゆすりなんてとんでもない。
  援助予算についてディーン氏は知らなかったのでしょう。

ディーンは、大統領の法律顧問をつとめた男である。
経験が浅いこともなければ、多額予算に慣れていないはずもない。

ハントはさらにこう証言した。

「私はウォーターゲート事件で、禁固35年の判決を受けました。

 その後、検察に協力することに決め、大統領補佐官たちを告発する
 証言を行った後、刑期は2年半から最高8年に減りました。」

(2018年12月14&16日に作成)


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