(『ケネディ暗殺』ロバート・モロー著から抜粋)
私がマリオ・ガルシア・コーリーの暫定政府の立ち上げに参加してから、数週間経った。
すると、アメリカ国務省のカストロ支持派は、コーリーの活動を制限するように指令を出した。
コーリーの活動の制限がとけるのは、1960年11月の大統領選挙の後となる。
国務省のウィリアム・ウィーランドは、『キューバ革命戦線(FRD)』を設立した。
ウィーランドは、CIAのリベラル派を説き伏せて、FRDを支援してコーリーを潰そうとした。
60年10月に入ると、ニクソン副大統領の軍事アドバイザーであるロバート・クッシュマン将軍は、コーリーに「FRDにうわべだけでも忠誠を誓え」と説得した。
だが、コーリーは拒絶した。
そして、キューバ侵攻の準備を急ピッチで進め始めた。
ウィーランドは、FRDに亡命キューバ人の左派の指導者を加えた。
彼は、「コーリーら右派がキューバに侵攻しても、以前のバティスタ政権と同類に見られて、キューバ国民に支持されない」と考えたのだ。
左派を加えたことでFRDは、CIAが立ち上げていた亡命キューバ人のリベラル派組織『キューバ革命評議会(CRC)』に掌握された。
FRDの司令官セルジオ・アルカチャ・スミスは、マフィアのボスであるカルロス・マルセロと深い関係にあった。
スミスは、ガイ・バニスター、マルセロのパイロットであったデビッド・フェリーとも繋がっていた。
キューバ侵攻計画をめぐって、CIA内部の保守派とリベラル派は激しく対立した。
CIAは2分され、計画から遠ざけられたコーリーは怒り狂った。
(2016年1月3日に作成)