ハント対リバティ・ロビー裁判⑭
ハワード・ハントの証言② 反対尋問②

(『大がかりな嘘』マーク・レーン著から抜粋)

E・ハワード・ハントへの反対尋問の次のステップは、彼ら(CIAとハント)にケネディ暗殺の機会があった事を立証することだ。

1963年11月22日(ケネディ暗殺の日)、ハントはどこに居たのか。

アメリカ人は誰でも、あの日に自分がどこで何をしていたか確信を持って思い出せる。
それほど衝撃的な事件だった。

私が出会ったアメリカ人の中で、あの日の自分の行動をはっきり思い出せない唯一の人物がE・ハワード・ハントだった。

彼は幾度も証言席に着いて証言してきたが、矛盾した話ばかりしてきた。

ハントは当時、CIAの職員だった。

だがCIAの記録には、ハントがどこに居たかが記されていない。

E・ハワード・ハントは、1974年3月にロックフェラー委員会に出頭し、「1963年11月22日に何をしていたか」と質問されてこう答えていた。

「当時私は、ワシントン市内のとある商業ビルに置かれた、CIAの国内作戦部に勤務していました。

亡妻を車に乗せてH通りを走っている時、ケネディが撃たれたことをカー・ラジオで聞きました。

私たちは「リー・ワン」という店に、中国食料品を買いに行ったのです。

その店を出てからは、下校する娘のケヴァンを迎えに行きました。

そして自宅にまっすぐ帰ったが、長男のセントジョンはもう帰宅していたと思います。

長女のリサもすぐに帰宅し、皆でテレビで暗殺事件の成り行きを見守っていました。

当時の我が家には、家政婦のメアリー・トレイナーと妻の叔母も居ました。

私は71年までテキサス州に行ったことはなく、72年春までフランク・スタージスにも会ったこともありません。

オズワルドやジャック・ルビーにも会った事はなく、知り合いでもありません。

私は1963年にメキシコには行ってないし、61年から70年まで一度も行きませんでした。」

記録を調べたところ、後になってそういう店が出来たものの、当時は「リー・ワン」という店はなかった。

デーヴィッド・アトリー・フィリプスの証言によれば、ハントは61年から70年の間にメキシコに赴任していたし、トレントの記事によれば63年8月~9月にメキシコ・シティのCIA臨時支局長を務めた。

『ハント対サード・プレス訴訟』の証言録取(1977年と78年)では、ハントは「隣人のレイモンド・トーマス夫妻も、あの日に我が家にいた」と語った。

この時は、「あの日の朝に、CIAのオフィスに行ったかどうか定かでありません。大統領の死を知った後、午後のうちにオフィスに行きました」とも証言している。

さらにリー・ワンという店が存在してなかった事を知ったらしく、次のように証言を変えた。

「私はその食料品店の名はリー・ワンだと言いましたが、あの場所に行ってみて、食料品店の名はタック・チェオングに違いないと思いました。」

「アリバイのある店を別の店に変更したのか」と尋ねられたハントは、「記憶の糸をたぐってみたわけです」と答えた。

1981年12月の『ハント対リバティ・ロビー訴訟』の第1回裁判(※破棄になった裁判)の前の証言録取では、ハントは新手の話を持ち出してきた。

「妻はその日(ケネディ暗殺の日)、生後3ヵ月の子供を車に乗せて、私を迎えに来ました。

妻が中華料理の材料を買いたいと言うので、H通りの中国食品店に行きました。

妻が店で買い物をしている間、私は車で待っていましたが、ラジオから大統領が狙撃されたというニュースが飛び込んできました。」

そして自分のアリバイを証明してくれる人物として、2人の名前を挙げた。

「私の部下のCIA職員、コニー・マゼロフというタイピストにオフィスで会いました。

我が家に戻る途中で、CIA職員のウォルター・クズマクに会いました。

クズマク氏は私の隣人で、連れとレストランから出てくるところでした。

クズマク氏と私は車の相乗りをする仲で、彼は私の車をよく知っていました。
彼は私に手を振り、私も手を振りました。

大統領が亡くなって、すべての行政機関がその日は休業することになったと聞いて、私と妻は学校に子供を迎えに行き、子供たちを乗せて帰宅しました。

家に帰った後は、家族全員でテレビとラジオに釘付けでした。」

ハントは、CIA関係の証人であるマゼロフとクズマクの証言と辻褄を合わせることになり、それまでの証言の多くを撤回する事にしたのだ。

だがクズマクの証言録取では、「あの日はハントと一緒に出勤せず、レストランの前で乗車中のハントを見かけただけである。11月18日から12月まで、その時以外にハントと会っていない」と語っている。

あの日の朝にハントが自宅の車で出勤して、オフィスでマゼロフと会っていたなら、どうやって妻は車でオフィスまでハントを迎えにこれたのだろうか。

私は、このハントのアリバイ問題について、ハントに反対尋問を始めた。


1963年11月22日に、初めてクズマク氏と会ったのは何時ですか。


朝です。一緒に出勤した時です。


クズマク氏が「あの日の朝は一緒に出勤しなかった」と証言しているのを知っていますか。


いいえ、知りません。


あなたは1977年の宣誓証言では、クズマクの名もマゼロフの名も出しませんでした。
間違いありませんね?


その事は確認ずみです。


それなのに、この裁判ではその2人がアリバイの証人になるわけですね。


そうです。


あなたは78年11月3日に下院暗殺特別委員会へ出頭し、証言を行いました。
その時もクズマク氏の名は出しませんでしたね。


ええ、そうです。というのも、その後にクズマク氏が手紙で私を見かけていたと知らせてくれたんです。


下院暗殺特別委員会の証言では、マゼロフ氏の名前は出しましたか。


いいえ。


するとこの裁判で証言してもらう2人のアリバイ証人は、下院暗殺特別委員会の証言では名前を出さなかった事になりますね。


その通りです。


あの日にあなたは、クズマク氏の車に乗って出勤したと、いま証言している。
あの日は、あなたの出勤日でしたか。


ええ、毎日出勤することになっていますから。


ロックフェラー委員会の調査では、「ハントはあの日の朝が、出勤日だったか、思い出せなかった」と結論しています。
さらに「11月23日までの2週間に、11時間の病気休暇を取った」と判定しています。

それを知っていますか。


知っています。
記録がどうあれ、委員会は私の無実を認定しました。


委員会の調査では、「大統領暗殺の日、ハントとフランク・スタージスの居所を知っていた人物について、ハントは思い出すことができなかった」と結論しています。

委員会の最終結論は、「あの日のハントとスタージスの居場所は、確定できない」でした。

それを知っていますか。


知っています。

陪審員たちの視線はハントにじっと注がれ、中には身を乗り出している者もいた。

私は、さらにアリバイを追及した。


1981年12月16日の証言録取では、『ケネディ暗殺の時にハントは、ダラスに居た』という記事が発表された時、お子さん達がかなり動揺したと証言していますね。

「あの日にダラスに居なかった事を、子供たちに言って安心させてやらねばならなかった」と、あなたは証言していますが、憶えていますか。


ええ。


「お父さんはケネディ暗殺に関わっていないんだ」と言ったんですよね?


その通りです。


1981年12月16日の証言録取では、あなたがダラスに居たとの記事は「家庭内をぎくしゃくさせて深刻な問題になった」とも言っていますね。


はい。

私は穏やかな調子で、核心となる質問に入った。


ハントさん、もしあなたが言うようにあの日にワシントンに居て、事件後に家族みんなでテレビの前に釘付けだったなら、どうしてダラスに居なかったことをお子さん達に納得させる必要があったのですか?

ハントは殴られた様に頭をぐっと後方に引き、自分の弁護士をまじまじと見つめた。

ハントの弁護士2人は肝をつぶしたらしく、ひそひそ話を始めた。

ハントはしばらく沈黙し、陪審席を見ないようにしながら話した。


あの子たちはまだ未熟だったから、きちんと思い出させることが大切だと感じたのです。

ダラスのディーリー・プラザに浮浪者を装った私が居たという嫌疑が、とんでもない話だと言って安心させてやりたかったのです。


あなたと家族は一緒にすごしたのですから、普通ならディーリー・プラザに居たという写真を見せられたところで信じないのではありませんか?


それは、マスコミの轟轟たる非難の声が止まなかったからです。


あの事件が起こった時、私は父と一緒に居ましたと証明できると、お子さん達は考えなかったのでしょうか。

私が知りたいのはそこなんですよ。
どうしてわざわざあなたが念を押す必要があったのか。


思い出させるためですよ。


お子さん達は、言われなくては思い出せなかったのですか。

ハントは再び口をつぐみ、ハンカチで額を拭った。
それから答えた。


マスコミの告発が子供たちに深刻な影を落としていました。

私はあの子たちの質問に答えて、「ディーリー・プラザに行ったことはないよ」と断言してやりました。


お子さん達はディーリー・プラザにあなたが居たとの記事が出てから、「この記事は本当なの」と訊いたと、あなたは証言したのですね?


その通りです。

本来ならば、ハントの子供たちこそ、アリバイの証人になる立場である。

ハントは供述内容をコロコロと変えてきたので、事件の日にずっと子供たちと一緒だった事と、子供たちが父親がどこにいたか知らなかった事が、両立しないのを見過ごしたらしい。

陪審員たちはよく理解しており、私の見たところ、すでにハントが敗れたとの結論に達している様だった。

しかし、こちらの攻勢はまだ始まったばかりだ。

ハントの証言が終わった時点で、私はこの訴訟の結果にかなりの自信を持った。

だから私は、残りの時間を『ケネディ暗殺にハントとCIAが関与した』という点に集中するつもりでいた。

実際にどうするかというと、被告のウィリス・カートも問題の記事の筆者ヴィクター・マーチェッティも証人席に着かせないことにした。

私はウィリス・カートに、自分の計画を語った。

彼は、話が終わると1つの質問をした。
「陪審がどんな評決を下すか、読み誤ったことはないのかね?」

私は笑って、「裁判ではこれまでいくつもミスを犯してきた。陪審を読み誤るのもその1つだ」と答えた。

どうやらケネディ暗殺の真相を明らかにしたいという想いが、カートの保身本能に打ち勝ったらしい。「それでやってくれ」と彼は言った。

私は依頼人の勇気ある決断に感謝した。

ハントの弁護士のウィリアム・スナイダーは、ウォルター・クズマクの証言録取を、ハントがワシントンにいた証拠として読み上げた。

だがクズマクは「あの日はハントと一緒に車で出勤しなかった。あの日、ハントがオフィスに居たか定かでない」と語っており、ハントのアリバイとしては弱かった。

コニー・マゼロフの証言も同様に曖昧で、「早朝にハントとオフィスで会った」と証言したが、「昼近くの会議にハントが出席したか憶えていない」と言い、「あの日に、他にハントを見た者はいないと思う」とも述べた。

原告側の立証が終わり、傍聴人も陪審員もあっけなさに驚いて息を飲んだ。

結局ハントは、我が子を1人も証言台に立たせなかった。

子供は全員健在で、出廷が可能な事が分かっている。
どうやらハントの子供たちは、嘘の証言をしたくなかったと見える。

(2018年12月16&21日に作成)


『ケネディ大統領の暗殺事件』 目次に戻る

『アメリカ史』 トップページに行く

『世界史の勉強』 トップページに行く

『サイトのトップページ』に行く