(『大がかりな嘘』マーク・レーン著から抜粋)
マリータ・ロレンツの証言録取の読み上げが終わると、ハントの弁護士は反駁証人としてニュートン・スコット・マイラーの召喚を法廷に要請した。
マイラーはCIAの創設時から就職し、長いことジェームズ・アングルトンの率いる防諜部で3番目に偉い、防諜部長を務めた人物だ。
裁判では、被告側の反証が終わると、次に原告側が反証に対する反駁を行う。
しかし反駁は、必ずしも認められるとは限らない。
提出される証拠は、原告側が予想できなかった可能性のある証拠に対して反駁するものでなければならない。
しかしマリータ・ロレンツの証言は、原告にとって意外なものだったと主張はできない。
なぜならハントの弁護士は証言録取に同席していたし、録取をしたのは裁判の前だった。
私が思うに、ハントの弁護士たちはロレンツの証言録取を排除するよう申し立てていたが、それが認められると期待していたのだろう。
だがキホー判事は申し立てを却下し、ロレンツの証言は法廷で公開されることになった。
もし私が望めば、マイラーの反駁証言を聞かずに審理を終わらせられた。
キホー判事は、「被告側がマイラーの召喚に反対する権利を放棄しない限り、マイラーの証言は認められない」とはっきり述べた。
私は出来るだけ多くの真実が明らかになる事を望んでいたので、マイラーの召喚に反対する権利を放棄することにした。
そして「今晩に証言録取を行うなら私も立ち会う」と伝えた。
こうすれば証言録取を(明日に)陪審員に読んで聞かせることもできる。
私はこの日の審理が終わると、依頼人であるウィリス・カートに電話をかけ、マイラーの件を説明した。
彼は「それは正しい決断だったよ、全ての真実を明るみに出そうや」と言ってくれた。
その晩のニュートン・スコット・マイラーの証言録取は、ハント側はケヴィン・ダン弁護士が参加した。
まずダンの主尋問が始まったが、彼はマイラーがCIAの古参の高官だった事を立証しようと、質問を浴びせた。
マイラーはこう証言した。
「私はレイ・ロッカの下で働きましたが、ロッカはCIA防諜部の責任者だったジェームズ・アングルトンの直属でした。
私は防諜部長を務め、30年近くCIAのために尽くしました。」
次にダンは、マリータ・ロレンツがCIAに雇われていなかった事を立証しようとした。
Q
マリータ・ロレンツはCIAに雇われていましたか。
A
いいえ。私のCIA在職中にはありませんでした。
彼女は、私の知る限りではCIAに雇われたことはないし、CIAの任務を遂行したことは承知していません。
Q
CIAがキューバに対して行った作戦についても、知りませんか。
A
はい、何も知りません。
Q
フランク・スタージスは、CIAと関わりがあったのですか。
A
彼はハント氏と関わりのある活動に携わっていたそうです。
Q
スタージスがCIAの職員だったことはありますか。
A
いいえ、ありません。
マイラーは次々と関係否定の証言をしたが、彼はこれまでの色々な訴訟で膨大な証言が存在することを知らなかったのだろう。
スタージスは、CIAに雇われた事や、マリータ・ロレンツとの関係も、議会などで証言していた。
元CIA長官のリチャード・ヘルムズも、「スタージスはCIAの契約工作員だった」と証言していた。
他の証言と食い違いが大きいので、マイラー証言はハントの弁護に役立たなかった。
私の反対尋問になると、始めにこう質問した。
Q
マイラーさん。
あなたはCIAで働いていた事を、いま証明できますか。
落ち着き払っていた証人が、ごく単純な質問でこれほどうろたえて怒り出した例を、私は他に見た事がない。
マイラーは顔を上気させ、ポケットというポケットに手を入れ懸命に何かを見つけようとした。
彼はCIAを退職したことを証明するカードという、名刺ほどの小さなものを差し出した。
そのカードには、連邦政府の職員だった事が記してあるだけで、日付もなく、彼の署名があるだけだった。
こんなカードなら、退職した郵便局の職員でも持っているだろう。
Q
あなたがCIAに雇用されていた事を、証明するものをお持ちですか。
A
このカード以外にはありません。
Q
それでは、あなたがCIAで働いていたと、どうして我々に分かりますか。
A
私は本当のことを申し上げています。
Q
マリータ・ロレンツも、CIAで働いていたと証言していますよ。
フランク・スタージスも同様です。
元CIA長官のリチャード・ヘルムズは、スタージスがCIAの工作員だったと証言しています。
ヘルムズ氏があなたについても、そのようにはっきり言明した事がありますか。
A
いいえ、ありません。
私は次に、マイラーがCIAと契約していた工作員をどこまで知っていたのか聞くことにした。
Q
あなたはCIAに在職中、CIAと契約していた全ての工作員を知っていましたか。
A
いいえ。
Q
そうすると、あなたはマリータ・ロレンツがCIAに雇われていなかったと断言できないわけですね。
A
その通りです。
Q
フランク・スタージスがCIAに雇われていなかったとも、断言できないわけですね。
A
はい、できません。
次に、マイラーが秘密を明らかにする許可が与えられているかどうかを、尋ねてみた。
Q
もしロレンツとスタージスがCIAに雇われていたのを、あなたが知っていたとして、あなたはCIAと交わした秘密保持の誓約に照らして、勝手にその事をこの場で明らかにできますか。
A
いえ、CIAと相談しなければならないと思います。
Q
今回ロレンツやスタージスの質問に答えるにあたって、事前にCIAに相談してきましたか。
A
いいえ。
Q
では、2人がCIAに雇われていたのをあなたが知っていたとしても、それを我々に言うことは出来ませんね。
A
それに関しては、私の法的立場がどういうものか、定かではありません。
Q
CIAと契約していた工作員で、あなたが知っている者を言ってみてくれませんか。
A
秘密保持の誓約があるので、答えられません。
ニュートン・スコット・マイラーについては、1つ重要な件があった。
彼は、ユーリ・ノセンコを尋問する責任者だった。
それゆえに、ケネディ暗殺の事実隠蔽に関わっていたはずだ。
私はその点を尋ねることにした。
Q
ノセンコという名前を知っていますか。
A
はい。
Q
ノセンコ氏を尋問した事がありますか。
A
いいえ。
マイラーは、ジェームズ・アングルトンらと共に、ノセンコの尋問を監督していた人物だ。
Q
あなたは報告書を読んだり尋問内容に助言するなどして、ノセンコ氏の尋問に関与しましたか。
A
はい。
ユーリ・ノセンコは、ソ連KGBの第二管理本部の中佐だった。
そしてアメリカ・イギリス部の副部長だった。
1959年にオズワルドがソ連に(偽装の)亡命をすると、オズワルドがCIAと接触しているのを警戒したKGBでは、ノセンコが彼の調査を指揮した。
ケネディ大統領が暗殺されると、ノセンコはKGBの上司から「オズワルドがソ連滞在中に接触した全ての人物を調査しろ」と命じられた。
モスクワでオズワルドと会っていたCIA要員のリチャード・スナイダーは、KGBに疑いをかけられた様である。
ノセンコは1962年からアメリカのスパイになっていて、64年1月にはアメリカに亡命したいとCIAに伝えた。
ノセンコは「ウォーレン委員会に報告すべき大事な情報がある」と言い、「オズワルドはKGBと接触しておらず、むしろKGBは『オズワルドはCIAに雇われている』と疑っていた」と伝えた。
CIA計画担当副長官のリチャード・ヘルムズは、ノセンコの亡命申請を却下した。
ちょうどこの時、CIAはウォーレン委員会に、「オズワルドがケネディ暗殺前にメキシコ・シティに行った。そこでソ連と接触した」という捏造情報を吹き込んでいた。
CIAにとって、ノセンコの証言は危ういものだったのだ。
1964年2月に、ノセンコはCIAに情報を流していたのがKGBにバレたと感じ、アメリカに逃亡した。
しかしアメリカで待っていたのは、拘禁と拷問だった。
ヘルムズとアングルトンは、バージニア州にあるCIAの隠れ家の地下の独房に、彼を監禁した。
それから3年あまり、ノセンコへの尋問と拷問が続き、彼は何本もの歯をへし折られた。
彼は危うく自白を強要されるところであったが、KGBで訓練を積んでいたので偽りの供述書に署名するのを断固として拒んだ。
ノセンコが「ウォーレン委員会で証言したい」と主張すればするほど、アングルトンは危険視し非難した。
そしてウォーレン委員会の報告書が出た後、ようやく釈放された。
CIAは、ノセンコが真実を語っていた事を認め、彼に家を買い与えアメリカ市民権も取り計らい、年に3万ドルを支給した。
この措置と引き換えに出された条件は、今後この件に関しては完全な沈黙を守ることだった。
ノセンコの名前は、ウォーレン委員会の報告書に全く出てこない。
しかし重要な証人になれたはずだ。
CIAは不当監禁と策略によって、ノセンコの証言を封じたのである。
私がマイラーにノセンコのことを訊いたのは、彼が真実を語るだろうと考えたからではなく、マイラーが信用を失うのを陪審員に聞いてもらうためだった。
証言が進むとマイラーは落ち着きを失い、視線をたえず弁護士に送って助けを求め、証言が終わると脱兎のごとく部屋を飛び出していったのである。
Q
ノセンコ氏は、CIAによって3年以上も不法に拘禁されましたか。
A
下院の暗殺委員会やチャーチ委員会によると、彼は監禁されたとあります。
Q
下院の暗殺委員会は、ノセンコ氏の拘束を不適当と認定しましたか。
A
はい、認定しました。
Q
CIAはそれが違法行為だったと認めましたか。
A
分かりません。
Q
あなたは、ノセンコ氏の権利を侵す違法行為に関わっていましたね。
A
質問の意味が分かりません。
スタンスフィールド・ターナー元CIA長官は、在任中のことを著書『秘密主義と民主主義』(邦訳名『CIAの内幕』)に書き、次のように述べている。
「国家安全保障上の危険人物とされるアメリカ人は30万人にのぼり、みなCIAのコンピュータに索引別に仕分けして載せられており、7200冊もの個人ファイルも作られている。
国家安全保障局(NSA)は何百万通もの個人の電報を傍受してきたし、電話の盗聴や寝室への隠しマイクの設置や、令状なしの家宅捜査もされてきた。
多くの一般市民が、密告者として利用された。
軍の情報機関は、国内の反体制グループの内部深くにもぐり込み、そのグループに共感する市民の情報を集め、1960年代半ばから71年にかけて10万人のファイルを作った。
米政府にとって不都合な外国指導者の暗殺も何度か企てられたが、実行されたことはない。」
ターナーは著書で、ノセンコにも言及している。
「ノセンコがソ連の貴重な情報を提供してくれた事は、それなりに評価できる。
彼の話から、モスクワのアメリカ大使館内に52個の盗聴マイクが取り付けられている事が分かった。
西欧のある国の政府内に、ソ連の大物スパイがいると教えてくれたのも彼であった。
それなのにジェームズ・アングルトンは、ノセンコを疑い自白を強要したのである。」
ターナーは、ノセンコへの拷問も書いている。
「ワシントン近くのCIAの秘密アジトに、ノセンコを収容する監禁所がわざわざ造られた。
その独房に、彼は3年半も拘禁された。
独房にいた1277日のうち、尋問されたのは292日で、尋問は24時間ぶっ続けもよくあった。
外部との接触は一切断たれ、テレビもラジオも新聞もない。2年以上は読書も禁止された。
その独房は2.5m四方のコンクリート造りで、窓はなく、鉄製のシングルベッドには枕もシーツもなく、たまに毛布がつく位だった。
歯ブラシは与えられず、ひげ剃りとシャワーは週1回だけ。
4種類の薬物を17回にわたって投与され、1度に2種以上が投与された事もあった。」
(2019年1月20日に作成)