(『ゴッドファーザー伝説(ジョゼフ・ボナーノ一代記)』ビル・ボナーノ著から抜粋)
1960~61年の時期に、私は私生活に忙殺された。
父(ジョゼフ・ボナーノ)は頻繁に引退を口にするようになっていたし、妻のロザリーは1958年末に再び出産をしたが、その子は死産だった。
ロザリーは深く落ち込み、それを見た私は養子をもらうことを考えた。
そして1人の男の赤ちゃんを養子にした。
私は、子供時代の大半をアリゾナ州で過ごしており、そこが故郷だった。
ボナーノ・ファミリーは、アリゾナ州にも拠点があり、ファミリーのオフィスのあるビルはイーヴォ・デコンチーニ判事が所有していた。
デコンチーニは我々の友人であり、そのオフィスではスポーツ賭博を運営していた。
1960年代に入ると、妻ロザリーと上手くいなかくなった。
ロザリーは普通の生活を望んでいたが、私は(マフィアなので)それを提供できなかった。
妻と緊張関係になったため、私は別の女性と深い関係をもつようになった。
相手のヘルガは、20歳でドイツ国籍をもち、アメリカのGIと離婚していた。
彼女には2人の子供がいた。
1961年のある時、仕事の関係で、私は家族をアリゾナ州フェニックスに引っ越させた。
この時ロザリーは、すでに息子を出産していた。
ある日、ヘルガが私に妊娠を告げた。
その子が産まれて何か月が経った時、ロザリーが不倫をかぎつけた。
ある晩、ヘルガが私に電話してきた。
「あなたの奥さんがここに居るのよ」と、彼女は囁くように言った。信じられなかった。
私はすぐにそこへ向かった。
アパートに着いて目にしたのは、想像をはるかに超えていた。
2人の女がカウチに腰を下ろし、テーブルを挟んで向かい合っていた。
ばかげていたのは、それぞれの3人の子供が隣りに居たことだ。
ロザリーの腕には、まだ赤ちゃんの息子が抱かれていた。
2人の女は睨み合っていた。
「ロザリー、家に帰るんだ。さあ早く。」と言って、私は子供たちの手を取り、家から出ようとした。
ロザリーは、息子を抱いたまま後ろに従った。
ヘルガと彼女の子供たちは、身じろぎもせずにそれを見送った。
家に着いて妻と子供を車から降ろしたが、私は方策を見つけられなかった。
ロザリーの兄弟はすでに私の不倫を知っているはずで、ロザリーはプロファッチ・ファミリーの人間だから、ボナーノ・ファミリーとプロファッチ・ファミリーの盟友関係にも影響が出かねなかった。
ある日、父がやって来て言った。
「ボナーノ一族の名前に泥を塗るな。それをする最初の人間になるな。」
私は恥ずかしい思いをしたが、それでもヘルガと別れられなかった。
一方、ニューヨークではプロファッチ・ファミリーの内部で、ガロ兄弟の反抗が続いていた。
最終的にガロ兄弟は、ラリー・ガロは1960年代半ばに癌で死に、ジョーイは強請で刑務所送りになったあと70年代に殺されてしまうことになる。
1962年にプロファッチ・ファミリー内の争いが、他のファミリーから問題視されて、コミッションの会議が開かれた。
この会議の提唱者はカルロ・ガンビーノで、黒幕はトミー・ルッケーゼだった。
この2人はガロ兄弟を支持していた。
ルッケーゼとガンビーノは、(プロファッチ・ファミリーのボスである)ジョー・プロファッチは引退すべきだと説いた。
理由としては高齢をあげた。
この会議の議長をしていた父は、盟友のプロファッチを守るために、強硬に「プロファッチは留まるべきだ」と述べた。
「ここで話し合うべきは年齢ではない、お互いの信頼だ」と言った。
父の言葉には、戦争も辞さないという意志が込められていたので、ルッケーゼたちは引き下がった。
この出来事で皮肉なのは、議論しているボスたち全員が50代と60代の年配者で、肝心のプロファッチが癌を患っていることだった。
プロファッチは数ヵ月後に病死して、ナンバー・ツーのジョゼフ・マグリオッコが後を継いだ。
マグリオッコには行政能力はほとんどなく、ボナーノ・ファミリーとの盟友関係も危うくなってきた。
私生活では、妻ロザリーが睡眠薬を飲んで自殺を図ってしまった。
彼女は助かったが、新聞で報じられて、問題が表面化した。
ロザリーの母が駆け付けてきて、ロザリーと子供をプロファッチ家(ロザリーの実家)に連れ帰ってしまった。
それから数週間して、私はようやくヘルガとの関係に終止符を打とうと決めた。
ヘルガはドイツに帰ることになった。
少し話は戻るが、1958年に麻薬密輸で逮捕されたニューヨーク・マフィアのボスの1人であるヴィト・ジェノヴェーゼは、裁判の結果1960年に刑期15年の投獄となった。
ジェノヴェーゼは、自分を逮捕させるために誰かが情報を警察にたれこんだと確信した。
それで自分のファミリーの幹部であるトニー・ベンダーが怪しいとにらんだ。
ベンダーは1962年の初めに、行方不明になった。
トニー・ベンダーに近かった者に、ジョゼフ・ヴァラキという兵隊がいた。
ヴァラキは1959年か60年に麻薬密輸で捕まった事があり、ボスのジェノヴェーゼから警察にたれ込んだ奴と見られた。
ヴァラキはジェノヴェーゼの放った殺し屋に狙われていると恐怖し、ある日、殺し屋と勘違いして別人を鉄パイプで殺してしまった。
逮捕されたヴァラキは、1961年の半ばからマフィアの内情を自白し始めた。
そしてジャーナリストのピーター・マーズが『ザ・ヴァラキ・ペーパーズ』を書くことになった。
これによりマフィアの存在は公けになり、(それまでマフィアと裏で繋がってきた)FBIも取り締まりを開始するしかなくなった。
その結果、マフィアの多くの者がFBIのスパイとなった。
私の父(ジョゼフ・ボナーノ)は、「ヴァラキに血の入会儀式をしてやったゴッドファーザーだ」と名指しされた。
だから父は、人目をさらに避けるようになり、カナダのモントリオールに移住した。
私は、実家に帰ってしまった妻ロザリーを取り戻すため、プロファッチ・ファミリーの新しいボスになったジョゼフ・マグリオッコに相談した。
マグリオッコは、亡くなったジョー・プロファッチの血縁で、ロザリーの叔父だった。
マグリオッコは旧世代の男で、妻は夫の持ち物であると考えていた。
さらに、プロファッチ家のために不倫した私に復讐するという考えは、持っていなかった。
マグリオッコに会うと、「事情はどうあれ、ロザリーはお前の妻で、お前は彼女に対して権利がある」と言ってくれた。
そして「明日にまた来てくれ」と言った。
翌日にマグリオッコ宅を再訪すると、ロザリーと子供たち、ロザリーの母が勢ぞろいしていた。
私が「妻は私と一緒に帰るんですね?」と聞くと、マグリオッコは「もちろんさ」と答えた。
しかしロザリーの母は、納得していなかった。
私は彼女のそういう面を初めて見たのだが、彼女は「警告しておきますよ、もし私の娘に何かあったら…」と、怒りのこもった低い声で言った。
「そこまでだ!」とマグリオッコが割って入り、彼女を落ち着かせた。
私はロザリーと話したのだが、彼女は私の家に戻るのを拒否した。
するとマグリオッコは、「当分、この家にいたらどうか」と言ってくれた。
私たちはその申し出を受けることにし、マグリオッコの家に引っ越すことにした。
ちょうどこの時期に、プロファッチ・ファミリーは一触即発の状態となった。
ジョゼフ・マグリオッコはファミリー内の選挙で新しいボスになったが、ガロ兄弟は反抗し、それをトミー・ルッケーゼらは支援した。
調停するためのコミッションの会議は、警察の目が厳しいので開けなかった。
ルッケーゼは、マグリオッコをボスに決めた選挙は正統でないと主張した。
そして亡くなったジョー・プロファッチの息子サルも、マグリオッコの支持を撤回してしまった。
その後、コミッション会議が開かれたが、主導権はルッケーゼやカルロ・ガンビーノが握っていて、「マグリオッコの選出は正統なものではない、30日以内に選挙をやり直すように」と決議された。
マグリオッコは戦争を始める決意をして、彼の家で暮らしていた私は協力すると約束した。
マグリオッコは、ルッケーゼとガンビーノを殺すと決めたが、それをプロファッチ・ファミリー幹部のジョー・コランボがルッケーゼとガンビーノに注進して、さらに私が一緒にいる事まで伝えてしまった。
これにより、ボナーノ・ファミリーが巻き込まれてしまった。
マグリオッコがルッケーゼとガンビーノを攻撃すると決めた後、彼の家は四六時中、緊張がみなぎった。
ある朝、2歳になる私の息子が、壁に立てかけてあるショットガンに手を出し、引金を引いてしまった。
銃は火を噴き、弾は天井を突き破ってマグリオッコのすぐ脇をかすめた。
家全体が大混乱に陥った後、私たちはそこを引き上げねばならなくなった。
私たちの家はアリゾナ州にあったが、ロザリーが実家の近くで暮らしたいと言ったので、ニューヨークで新居を見つけた。
父は私に、「ルッケーゼと会って話し合え」と指示した。
ボナーノ・ファミリーの副ボスであるジョニー・モラレス、ガスパー・ディグレゴリオ、私の3人は、ルッケーゼの自宅を訪ねた。
そしてルッケーゼ、彼の副ボスであるスティーヴン・ラサッラ、幹部のカーマイン・グリブスと会談した。
ジョニー・モラレスはボナーノ・ファミリーを代表して、私とマグリオッコが通じているのではないと釈明し、個人的な事情でマグリオッコの家に住んでいるのだと説明した。
ルッケーゼは微笑を浮かべてうなずき、その説明を受け入れ、私の家庭内の問題について気の毒がって見せた。
我々は抱擁を交わして、一件は落着した。
この話し合いがあったのは1963年の初秋だったが、11月にケネディ暗殺事件が起きて、直後にマグリオッコは心臓発作で亡くなってしまった。
(2022年11月11~12日に作成)