ハント対リバティ・ロビー裁判⑯
ニュートン・スコット・マイラーの証言②
ユーリ・ノセンコについて

(『大がかりな嘘』マーク・レーン著から抜粋)

ニュートン・スコット・マイラーについては、1つ重要な件がある。

彼は、ユーリ・ノセンコを尋問する責任者だった。

それゆえに、ケネディ暗殺の事実隠蔽に関わっていたはずだ。

私はその点を尋ねることにした。

Q ノセンコという名前を知っていますか。

A はい。

Q ノセンコ氏を尋問した事がありますか。

A いいえ。

マイラーは、ジェームズ・アングルトンらと共に、ノセンコの尋問を監督していた人物だ。

Q あなたは報告書を読んだり尋問内容に助言するなどして、
  ノセンコ氏の尋問に関与しましたか。

A はい。

ユーリ・ノセンコは、ソ連KGBの第二管理本部の中佐だった。
そしてアメリカ・イギリス部の副部長だった。

1959年にオズワルドがソ連に(偽装の)亡命をすると、オズワルドがCIAと接触しているのを警戒したKGBでは、ノセンコが彼の調査を指揮した。

ケネディ大統領が暗殺されると、ノセンコはKGBの上司から「オズワルドがソ連滞在中に接触した全ての人物を調査しろ」と命じられた。

モスクワでオズワルドと会っていたCIA要員のリチャード・スナイダーは、KGBに疑いをかけられた様である。

ノセンコは1962年からアメリカのスパイになっていて、64年1月にはアメリカに亡命したいとCIAに伝えた。

ノセンコは「ウォーレン委員会に報告すべき大事な情報がある」と言い、「オズワルドはKGBと接触しておらず、むしろKGBは『オズワルドはCIAに雇われている』と疑っていた」と伝えた。

CIA計画担当副長官のリチャード・ヘルムズは、ノセンコの亡命申請を却下した。

ちょうどこの時、CIAはウォーレン委員会に「オズワルドがケネディ暗殺前にメキシコ・シティに行った。そこでソ連と接触した」という捏造情報を吹き込んでいた。

CIAにとって、ノセンコの証言は危ういものだったのだ。

1964年2月に、ノセンコはCIAに情報を流していたのがKGBにバレたと感じ、アメリカに逃亡した。

しかしアメリカで待っていたのは、拘禁と拷問だった。

ヘルムズとアングルトンは、バージニア州にあるCIAの隠れ家の地下の独房に、彼を監禁した。

それから3年あまり、ノセンコへの尋問と拷問が続き、彼は何本もの歯をへし折られた。

彼は危うく自白を強要されるところであったが、KGBで訓練を積んでいたので偽りの供述書に署名するのを断固として拒んだ。

ノセンコが「ウォーレン委員会で証言したい」と主張すればするほど、アングルトンは危険視し非難した。

そしてウォーレン委員会の報告書が出た後、釈放された。

CIAは、ノセンコが真実を語っていた事を認め、彼に家を買い与えアメリカ市民権も取り計らい、年に3万ドルを支給した。

この措置と引き換えに出された条件は、今後この件に関しては完全な沈黙を守ることだった。

ノセンコの名前は、ウォーレン委員会の報告書に全く出てこない。
しかし重要な証人になれたはずだ。

CIAは不当監禁と策略によって、ノセンコの証言を封じたのである。

私がマイラーにノセンコのことを訊いたのは、彼が真実を語るだろうと考えたからではなく、マイラーが信用を失うのを陪審員に聞いてもらうためだった。

証言が進むとマイラーは落ち着きを失い、視線をたえず弁護士に送って助けを求め、証言が終わると脱兎のごとく部屋を飛び出していったのである。

Q ノセンコ氏は、CIAによって3年以上も不法に拘禁されましたか。

A 下院の暗殺委員会やチャーチ委員会によると、彼は監禁された
  とあります。

Q 下院暗殺委員会は、ノセンコ氏の拘束を不適当と認定しましたか。

A はい、認定しました。

Q CIAはそれが違法行為だったと認めましたか。

A 分かりません。

Q あなたは、ノセンコ氏の権利を侵す違法行為に関わっていましたね。

A 質問の意味が分かりません。

スタンスフィールド・ターナー元CIA長官は、在任中のことを著書『秘密主義と民主主義』(邦訳名『CIAの内幕』)に書き、次のように述べている。

「国家安全保障上の危険人物とされるアメリカ人は30万人にのぼり、
 みなCIAのコンピュータに索引別に仕分けして載せられており、
 7200冊もの個人ファイルも作られている。

 国家安全保障局(NSA)は何百万通もの個人の電報を傍受して
 きたし、電話の盗聴や寝室への隠しマイクの設置や、
 令状なしの家宅捜査もされてきた。

 多くの一般市民が、密告者として利用された。

 軍の情報機関は、国内の反体制グループの内部深くもぐり込み、
 そのグループに共感する市民の情報を集め、1960年代半ばから
 71年にかけて10万人のファイルを作った。

 米政府にとって不都合な外国指導者の暗殺も何度か企てられたが、
 実行されたことはない。」

ターナーは、ノセンコにも言及している。

「ノセンコがソ連の貴重な情報を提供してくれた事は、
 それなりに評価できる。

 彼の話から、モスクワのアメリカ大使館内に52個の盗聴マイクが
 取り付けられている事が分かった。

 西欧のある国の政府内に、ソ連の大物スパイがいると教えてくれた
 のも彼であった。

 それなのにアングルトンは、ノセンコを疑い自白を強要した
 のである。」

ターナーは、ノセンコへの拷問も書いている。

「ワシントン近くのCIAの秘密アジトに、ノセンコを収容する
 監禁所がわざわざ造られた。

 その独房に、彼は3年半も拘禁された。

 独房にいた1277日のうち、尋問されたのは292日で、
 尋問は24時間ぶっ続けもよくあった。

 外部との接触は一切断たれ、テレビもラジオも新聞もない。
 2年以上は読書も禁止された。

 その独房は2.5m四方のコンクリート造りで、窓はなく、
 鉄製のシングルベッドには枕もシーツもなく、
 たまに毛布がつく位だった。

 歯ブラシは与えられず、ひげ剃りとシャワーは週1回だけ。

 4種類の薬物を17回にわたって投与され、1度に2種以上が
 投与された事もあった。」

(2019年1月20日に作成)


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