(『ゴッドファーザー伝説(ジョゼフ・ボナーノ一代記)』ビル・ボナーノ著から抜粋)
私の父(ジョゼフ・ボナーノ)が大陪審から解放されると、私たちはスティーブ・マッガディーノとガスパー・ディグレゴリオのファミリーに対して、戦争を始めた。
メディアはこのマフィアの抗争を、「バナナ・ウォーズ(バナナ戦争)」と名付けた。
(※ジョゼフ・ボナーノ、スティーブ・マッガディーノ、ガスパー・ディグレゴリオは古くからの友人で、親戚関係を築いており、これは身内同士の争いといえる)
私たちは最初から、戦いには20~30人しか投入しないつもりだった。
戦闘要員とその家族には支援が必要であり、武器庫や兵站基地も設置しなくてはならなかった。
武器を入手するために、私はニューヨーク市内へ武器を密輸し続けた。
空港を監視している仲間からは、様々な武器がそこで受け渡されていると報告があり、それを盗んで入手した。
部下の家の地下に射撃訓練場を作り、戦闘要員はそこで腕を磨いた。
様々な目的で使用するために、偽造した登録証付きの車をたくさん集めた。
さらに通信システムを構築し、ニューヨーク市内の数十ヵ所の公衆電話をそのために使えるようにし、暗号を作成して兵隊たちに記憶させた。
住む所も探したが、一戸建てよりもアパートにした。
アパートは人目につきやすく、侵入者が見つかりやすいからだ。
私は、父となるべく一緒に居ないようにした。
暗殺者が一石二鳥で同時に殺すことを出来なくするためである。
こうした日々は、私たちを苛立たせ、情緒を不安定にさせた。
私たちボナーノ・ファミリーは、コミッション(マフィアの全国組織)から排除されたも同然だったが、私は以前と同じように他のファミリーの幹部と付き合った。
私たちに協力的な者が多く、コミッションの決定について動揺がかなりあるらしいと分かった。
ある日、事件が起こった。
父が外出中に、何者かに拉致されて、行方不明になったのだ。
父と一緒にいた弁護士のウィリアム・マロニーを疑ったが、マロニーは心底から動揺しているようだった。
(※ジョゼフ・ボナーノは1964年10月に行方不明になった)
誘拐事件から数日後に、ガンビーノ・ファミリーの使い走りのアーニイ・ビゲロウが「ジョゼフ・ボナーノは元気で生きていると聞いた」と語ったのを、知った。
我々はビゲロウを拉致して尋問したが、2時間後には何も知らないと分かった。
マスコミが群がってきて報道を始めたため、私は隠れ家のアパートを出ないようにした。
だが父が殺されたのではないかと心配で、発狂しそうになり、気分を変えるためフランク・ラブルッツォ叔父を誘って、マサチューセッツ、ニューハンプシャー、ヴァーモントと各地を車で移動した。
ある晩に、私は不意にある事を思い出した。
父と私はずいぶん前に、連絡できなくなった場合にはニューヨーク州ロングアイランドの私の自宅から近い公衆電話へ、決めた時間に電話して接触する、と約束していたのだ。
それを思い出した時、殴られたような衝撃を受けた。
取り決めでは、電話の時間は木曜日の午後8時だった。
これまでに3回の木曜日を見過ごしていた。
私はすぐにニューヨークに戻り、毎週木曜日にその公衆電話へ通った。
季節は秋から冬になったが、電話は沈黙したままだった。
1964年12月17日の木曜日、午後8時に電話が鳴り出した。
私は電話ボックスに飛び込んで、受話器に耳を当てた。
聞こえたのは父の声ではなく、男の声がこう告げた。
「いいか、よく聞けよ。お前の父は大丈夫だ。
何もするな。たぶん2日後には姿が見られるだろう。」
「ちょっと待ってくれ!」私は叫んだ。
「絶対にジタバタするな。何もしないで大人しくしていろ。」
相手はそう言って電話を切ったが、私は何度もフックを叩き、送話口に向かって叫んだ。
やがて落ち着きを取り戻すと、すぐにフランク叔父に報告した。
フランク叔父は「じっとしていろ」と忠告したが、私は動かないではいられなかった。
父が誘拐されたのは、再び大陪審に立つ直前だったので、戻ってくれば即座にその問題が生じる。
父が逃亡したと裁判所が判断して、逮捕状が用意されている可能性があった。
だから弁護士のウィリアム・マロニーに電話して、「父が2日後に戻ってくる」と伝えた。
しかし私は、フランク叔父の忠告を聞いておくべきだった。
自分が未熟だと思い知ることになった。
ウィリアム・マロニーに伝えたところ、その日の夜にテレビで特別ニュースが流れて、こう報じられた。
「ジョゼフ・ボナーノが無事に発見されて、彼の弁護士マロニーによると月曜の朝9時に連邦大陪審に現れることになっている」
マロニーは記者会見までしていた。
私は怒りがこみ上げ、「くそったれ! あの馬鹿野郎は自分が何をしているか分かっているのか!」とわめいた。
落ち着きを取り戻すと、すぐにマロニーに電話した。
私は訊いた。「父から連絡があったのか?」
「いや」とマロニーは答えて、「そっちへはあったのか?」と尋ねてきた。
「いいか、お前のおかげで父の命が危なくなったんだ。父にもしもの事があったら、お前のせいだからな。」
「ビル、私は何も」
「ただし、俺にも責任がある。お前に知らせたからだ。
お前は永久にクビだ、分かったか?」
私は受話器を架台に叩きつけた。
予想した通り、父は戻ってこなかった。
1964年12月30日に、私はFBIに捕まった。
それは犯罪容疑ではなく、父の誘拐を調べるニューヨーク大陪審の証人としてだった。
私は召喚状を渡されて、65年1月5日にニューヨークに居なくてはならなくなった。
弁護士のアル・クリーガーのオフィスで、私たちは大陪審の対策を話し合った。
最も利口なやり方は、アメリカ憲法・修正第5条を使うことだった。
私は大陪審で、憲法修正第5条を使い、自分の名前以外は何も言わず、全ての質問で回答を拒否した。
回答を拒否し続ければ、政府は免責特権を与えることを検討せざるを得なくなる。
アメリカ政府は免責特権の許可を手に入れて、ボールを法廷に投げ返した。
私は弁護士と相談し、父については沈黙するが、その他の質問には譲歩することにした。
だが当然ながら、質問は父の所在へと一直線に導かれていき、私は再び修正第5条を盾に取った。
すると政府は、民事の侮辱罪で私を告発するよう要請した。
これが認められれば、検察と裁判所は保釈をさせることなく、刑務所送りにできる。
私と弁護士は、法廷侮辱罪(これは刑事犯罪である)に問われることは想定しており、そうなったら保釈を請求しようと考えていた。
クリーガー弁護士は、民事の侮辱罪になる理由の説明を求めたが、判事は却下し、私は刑務所に送られた。
私は、マンハッタンにあるウェスト・ストリート刑務所の独房に入ったが、便器には蓋がなく常に臭かった。
照明は24時間消えることがなく、昼と夜の感覚が完全に失われた。
ここは、かつてマーダー・インコーポレイテッド(マフィアの暗殺専門集団)を率いたルイス・レプケが収監された所で、ゴミ溜めのような所だった。
私が入った刑務所は、マフィアの人間がたくさん収監されており、ボナーノ・ファミリーに敵対する者もいたから、出される料理に毒が入っているかもと恐れ、食べられなかった。
だがある日、房の中で物音がした。
見ると隅に、1匹のネズミがいて、私たちは互いに見つめ合った。
やがてそのネズミに毒見させる事を思いつき、そっと食べ物を差し出した。
ネズミは動かずにいる私を見て、かじり始めた。
彼はそこに居るだけで、周辺にドブネズミがいないことも教えてくれた。
ネズミとドブネズミは、決して同じ空間を共有しないのである。
そのうちに彼は私を信頼し、触らせてくれるまでになった。
私はトポという名前を付けてやり、自分の胸の内を打ち明けるようになった。
ある日、私は独房から雑居房に移されることになり、トポは入ってきた時と同じように、突然に私の人生から出ていく事になった。
移った雑居房は、10人が入る所で、日中は扉が開いているし、カード・ゲームに興じることもできた。
風呂に入ることも出来たし、夜には照明は消えた。
仲良くなった男に、ペトラシャンスキーというロシア人がいた。
彼は社交的で、腕の良いチェス・プレイヤーでもあり、私にチェスを教えてくれた。
家族とも面会が可能になった。
1965年5月下旬のある日に、フランク叔父が面会に来た。
彼は「お前の父は無事だ」というメッセージを示す暗号を、その時に言った。
その後、ボナーノ・ファミリーの副ボスであるジョニー・モラレスも私にメッセージをよこして、「そろそろ刑務所を出る時期だ」と言ってきた。
私はそれを父の命令ととらえ、クリーガー弁護士を呼び「自由の身になるためなら何でもする」と告げた。
クリーガーは戦略を練り、6月に私は連邦法廷に立った。
予想通り、検察官は父の失踪について質問したが、私は(上述した)昨年12月にあった謎の第三者からの電話のことを話した。
検察は「その電話はどこからかかってきたのか?」と質問したが、私は「知らない」と答えた。
裁判官は、私が質問に答えたし、すでに懲役刑を受けて罪を償ったと裁定し、私の釈放を命じた。
その日、家に戻ると出所祝いのパーティが催されたが、叔母たちは私があまりに痩せたので驚いていた。
その夜、ジョニー・モラレスに父のことを尋ねると、「2ヵ月前に電話で接触できた。それから何度も電話があった」と教えてくれた。
父は自由の身になったが、まだ身を隠していなくてはならないと知った。
(2022年11月12~13日に作成)