(『ケネディ暗殺』ロバート・モロー著から抜粋)
CRC(キューバ革命評議会。亡命キューバ人の左派組織)の台頭に、ニクソン副大統領は頭を悩ませていた。
大統領選挙が迫っており、民主党候補のジョン・F・ケネディはキューバ問題につけ入ってきた。
CIAは、ニクソンの当選に手を貸す決定を下し、カストロ暗殺作戦に着手した。
キューバ侵攻作戦の指揮官に任命されたCIAのハワード・ハントは、上司に暗殺作戦を進言した。
これを受けて、保安局長のシェフィールド・エドワーズ大佐は、この任務をジェームズ・オコンネルに命じた。
1960年8月に、オコンネルは「暗殺の実行者にはマフィアが適任である」と報告した。
アメリカ・マフィアには、「キューバへの投資を回収する」という強力な動機があった。
(※カストロが政権を取るまでは、キューバはカジノが盛んで、それをアメリカ・マフィアが牛耳っていた。
カストロは政権を獲るとカジノを閉鎖し、アメリカ・マフィアを追い出していた。)
CIA作戦局次長のリチャード・ビッセルは、カストロ暗殺作戦にゴーサインを出した。
オコンネルは、かつてFBIでガイ・バニスターの部下だったロバート・メイヒューを仲介役(マフィアとの連絡役)に決めた。
ロバート・メイヒューは、1950年代の後半から、マフィアのラスベガスのボスであるジョニー・ロゼリと付き合っていた。
そこで、ロゼリにヒットマンの手配を依頼した。
ロゼリは1つの条件を出した。政府高官の保証を求めたのだ。
60年9月14日に、メイヒューとロゼリはNYのプラザホテルで、CIAのオコンネルと会った。
これで問題はなくなった。
リチャード・ビッセルとシェフィールド・エドワーズは、ダレスCIA長官とカベル副長官に、カストロ暗殺計画のブリーフィングを行った。
9月末までにロゼリは、サム・ジアンカーナ(シカゴ・マフィアのボス)を通じて、サントス・トラフィカンテに援助を求めた。
トラフィカンテは、フロリダ・マフィアのボスで、かつてはハバナにおりロゼリのボスだった。
ビッセルとエドワーズは、ニクソン副大統領にも概要を説明した。
ニクソンは、アイゼンハワー大統領とは異なり、目的のためなら暗殺も辞さない男だ。
元CIAの工作員マーロン・クーパーは、1975年6月のラジオ出演時にこう証言している。
「1955年1月1日に私は、ニクソン副大統領と共に、ホンデュラスで開かれたあるミーティングに出席した。
そこではパナマのホセ・レモン大統領の暗殺計画が、詳細に議論された。
その場には、ヒットマンのチームも同席していた。
翌日に、レモン大統領はパナマ市郊外でマシンガンで撃たれて死亡した。」
リチャード・ニクソンは1960年10月にコーリーと会い、取り決めをした。
これは後に、『オペレーション・フォーティ』の名で知られるようになる。
内容を端的にいえば、『キューバ侵攻が成功した時点で、CRCの左派指導者たちの全てを排除すること』が、コーリーに認められたのである。
つまり、コーリーはキューバ大統領になることが確約された。
亡命キューバ人の左派指導者を大量殺戮するため、キューバ侵攻作戦が完了するまでCIAが拉致監禁し、その後に全員を殺すことになった。
『オペレーション・フォーティ』は、ピッグズ湾への侵攻作戦の失敗により、表面化することになる。
(2016年1月3日に作成)