(『ゴッドファーザー伝説(ジョゼフ・ボナーノ一代記)』ビル・ボナーノ著から抜粋)
マフィアの世界では、結婚は政略結婚が基本だ。
私の父(ジョゼフ・ボナーノ)も、ニューヨーク・マフィアのボスの1人であるジョー・プロファッチの姪のロザリーと、私を結ばせようとした。
1954年の夏に、私はロザリーと付き合い始めた。
彼女は4歳年下で、小さい頃から夏休みに農場でよく会っていた。
彼女は私の妹キャサリンと同じ学校に通っていて、キャサリンはロザリーの面倒を見てやっていた。
実は私は別の女性と結婚を考えたことがあったのだが、相手の家族はマフィアと親類になるのを嫌がったのでダメだった。
相手がロザリーであれば、父も賛成するはずだった。
ロザリーはこの年に高校を卒業したばかりだった。
1954年の8月下旬に、プロファッチ・ファミリーのグループ・キャプテンを務めていたロザリーの父は、自分の乗ったボートが爆発して死亡した。
ロザリーの父は、プロファッチ・ファミリーのボスの弟であり、私とロザリーの結婚を止めようと目論む誰かの標的になった可能性が高かった。
翌55年の夏に、私はロザリーと再会し、初めてキスをした。
その頃の私は忙しくて、デートもままならない状況にあった。
だが盟友関係にあった私の父とジョー・プロファッチは、私たちの結婚を望んでいた。
秋になると私は、ロザリーにプロポーズした。
1956年1月1日に、私とロザリーは婚約を発表した。
結婚式はシェラトン・アスター・ホテルで行うことに決め、各種の業者の段取りをした。
アトラクションについては、トニー・ベネットとフォー・ラッズを雇った。
さらにシック・カンブリア・オーケストラと契約が成立した。
彼らは1950年代において、業界一のダンス・バンドだった。
私たちの結婚式には、全米の24のマフィア・ファミリーが全て出席し、議員や判事らも来たため、披露宴は3千人を超える招待客がやってきた。
ご祝儀の額は10万ドルを超えた。
その夜、ロザリーと初めてセックスをした。
彼女は処女で、痛みで悲鳴を上げた。
ことが終わると、彼女は背を向けてしまった。
私はどう慰めればいいか分からず、「お母さんは教えてくれなかったのか?」と言った。
「知らなかったわ」と彼女は答えた。
ロザリーの母は教えておくべきだった。
我々の文化では、母親が事前に知識を与えるものなのだ。
私たちが故郷シチリアへのハネムーンに出発する前、父は私にパレルモ地方のクラン(党派)のリーダーたちを改めて教えた。
そして特別な警告をした。
「もし女房がヴィッラバーテを訪ねたいと言っても、絶対に拒否しろ。あそこには問題があるんだ、分かったな。」
妻ロザリーは、当然ながら彼女の一族の故郷であるヴィッラバーテに行きたがった。
「そこへは行けないんだ」と、私は告げた。
「行けないって、どうして?」彼女は無邪気に訊き返した。
「あの辺りにはまだ争いがあって、君の家族も関係している。僕たちの安全が保証されないんだよ」
私は、彼女が悄然とするのを見てとった。
私たちの乗った飛行機がシチリア島のパレルモに着くと、200人を超す人々が出迎えてくれた。
そして車に乗り、パレルモの重要なマフィア・ファミリーのボスであるベネデット・ルッソの家に連れていかれた。
私は父の名代としてルッソに挨拶し、伝言を伝えた。
ルッソは「問題を解決するために、ジョゼフ・ボナーノに来てほしい」と言った。
私は父に伝えることを約束した。
ルッソの家をあとにして宿屋に着くと、その夜にジュゼッペ・マッガディーノという老人が訪ねてきた。
マッガディーノ一族は、我々ボナーノ一族と昔から親しく、ボンヴェントレ、ブルーノ、ラブルッツォの一族と共に繋がりがある。
これらの一族の家系図は、どこかで必ずくっついているのだ。
アメリカにもステファノ・マッガディーノという人がいて、バッファローのマフィアのボスをしていた。
ステファノは私の父の従兄弟で、父が1920年代に不法移民としてアメリカに入った時に面倒を見た。
いま目の前にいるジュゼッペ・マッガディーノは、父の親友であるピーター・マッガディーノの父親だった。
父とピーター・マッガディーノは、イタリアがムッソリーニ時代の初期に、パレルモの海軍兵学校に入った。
そこでは全生徒がムッソリーニに敬意を表して黒シャツを着なくてはならない規則があった。
しかし父はムッソリーニとファシズムに反対しており、一握りの生徒と共に白シャツを着た。
父は放校になり、ピーターと共にキューバ行きの船に乗り、そこからアメリカに入国した。
2人はアメリカの移民当局に逮捕されたが、すでにバッファローのボスだったステファノ・マッガディーノの命令で派遣されたウィリー・モレッティ(後にフランク・コステッロの右腕になった人)に保釈金を払ってもらった。
私を訪ねたジュゼッペ老人は、昔話をしてくれた。
その内容はこうである。
「その昔、シチリアではボナーノ一族とブチェッラート一族が争い、何年も殺し合いが続いた。
あんたの祖父はブチェッラートの頭と和睦したがっていたが、その頃に、1905年のことだが、あんたの父が生まれたんだ。
あんたの祖父はブチェッラートのアジトに1人で行き、『私の息子の名付け親になってくれないか』と頼んだ。
ブチェッラートの頭は完全に意表をつかれて、『その名誉を誇りに思うよ』としか返せなかった。
そして戦争は終わった。
あんたの父は、平和の天使として生まれたんだよ!」
この話は知っていたが、実際に目撃した人の口から聞くのは初めてだった。
話を聞いていて、我々の伝統とは何かを理解することが出来た。
だが、私の父の歴史は、(マフィアに入会して出世する中で)多くの流血にまみれた。
だから「平和の天使」という呼び名は、とても皮肉に思われる。
(2022年11月6日に作成)