(『ゴッドファーザー伝説(ジョゼフ・ボナーノ一代記)』ビル・ボナーノ著から抜粋)
ある日、ボナーノ・ファミリーの副ボスであるジョニー・モラレスが私の所にやってきて、行方不明になっている父(ジョゼフ・ボナーノ)からの伝言を言った。
「お前の親父さん(ジョゼフ・ボナーノ)から電話があった。
明日の午後、ニューヨークのブルックリンの雑貨屋で会いたいそうだ。」
なぜ雑貨屋なのかを訊きたかったが、突き止めようとしても無駄だと分かっていた。
翌日、モラレスと2人で、ブルックリンに向かった。
約束の雑貨屋で時間をつぶしていると、1人の年寄りの浮浪者が近づいてきて、我々を押しのけるようにして通り過ぎた。
私はぶん殴ってやろうかと思ったが、年寄りは私の前に立ちふさがると言った。
「お前は目を開けてはいたが、何も見ていなかったな」
それは父だった。
我々は隠れ家であるメアリー叔母の家へ行き、父は変装を解いて、2時間ばかりゆったりと話し合った。
父は、自分が誘拐・監禁された事件のすべてを話した。
「私は誘拐され、車の床に突き転がされた。
死ぬのだと観念したよ。
車は何時間も走ったが、着いたのは田舎の農場だった。
私は古い農家に連れて行かれたが、やがて従兄弟のスティーブ・マッガディーノが現れた。
信じられるか? あいつが目の前に立って、満足げなしたり顔をしたんだぞ。
それから話し合いが続き、6週間にも及んだ。
それは常に主導権争いだった。
だが話し合うほど、殺されることはなさそうだと感じた。
そうでなければ、この際限のない話し合いをする理由がないからな。
私が知りたかったのは、スティーブ・マッガディーノの後ろに誰が居るかだった。
それを探ったが、スティーブ1人の犯行らしかった。
『あんたは広すぎる空間を独り占めしている』と、彼は言った。
彼は両手を振りながら喚き立てた。
『どうしてそんなに大物になろうとするんだ?
どうして他の連中のように道理に従わないんだ?
どうして他のボスの招集した会合に出席しないんだ?』
食事の間は一時休戦になり、我々は一緒に食べて葉巻を楽しんだ。
6週間の話し合いの後、出て行っていいと告げられた。」
いま振り返ると、スティーブ・マッガディーノが父を殺さなかった理由は、トミー・ルッケーゼとカルロ・ガンビーノの全面的な後ろ盾がなかったからだ。
彼らは、ボナーノ・ファミリーに対する攻撃を、マフィアの全ファミリーが支持してくれる自信がなかったのだ。
解放された父は、(縄張りの1つである)アリゾナ州ツーソンに戻り、緊急時のための秘密のアパートに隠れて、3週間は側近の1人にしか連絡を取らなかった。
そしてある程度の情報を集めてから、私たちに連絡した。
私、ジョニー・モラレス、フランク・ラブルッツォ叔父は、「まだ隠れているべきだ」と父を説得した。
フランク叔父は言った。
「誰がスティーブ・マッガディーノとつるんでいるかが、まだ分かっていない」
その年(1965年)の11月に、ガスパー・ディグレゴリオの娘が結婚した。
(※ディグレゴリオは元はボナーノ・ファミリーの幹部だが、スティーブ・マッガディーノと組んでジョゼフ・ボナーノと対立していた)
分裂状態のボナーノ・ファミリーのうち、父や私やモラレスは招待されなかったが、他のリーダーたちは招待された。
その一方で、トミー・ルッケーゼやカルロ・ガンビーノは招待されなかった。
この事は、深刻な戦争になる前に和解したいという意思表示にも思えた。
この時期、ディグレゴリオは健康不良で自宅にこもり、部下のポール・シアッカがファミリーを肩代わりしつつあった。
ディグレゴリオが話し合いを望んでいるとの話を、私のところへ最初に持ち込んだのは、フランク叔父だった。
我々はその提案を無視したが、年が明けて1966年になってからも提案は届けられ続けた。
そしてある日、フランク叔父は「ディグレゴリオは、我々の指定した場所で会ってもいいと言っている」とのメッセージを、私に伝えた。
このメッセージは、父には送られなかった。
さらにスティーブ・マッガディーノやコミッションからの接触もなかった。
我々はディグレゴリオの提案を受け入れるか話し合ったが、フランク叔父は提案を受け入れたがらず、「どうも胡散臭い」と言った。
この件を父に報告して意見を聞くかどうかが持ち上がると、私は「その必要性はない」と言って反対した。
この話し合いのとき、(父が隠れ暮らしているため)ボナーノ・ファミリーの決定権の多くが私にあることに気付いた。
この話し合いでは、私が採用して側近に昇進させたカール・シマリとハンク・ペッローネも出席していた。
この2人は、シチリア島の生まれではないが、忠実な男だった。
最終的に私が決断を下して、ディグレゴリオに「ボンヴェントレ叔父の家で会おう」とメッセージを送ることにした。
その家はブルックリンのリッジウッド地区にあったが、地域全体をボナーノ・ファミリーが仕切っていた。
私は、平和を望んでいた。
なにしろ父は北部の農場に隠れ暮らしており、母もニュージャージー州の親戚の家の地下室で暮らしていたからだ。
私の妻と子供たちも、リポーターや捜査官に追いかけ回されていた。
ガスパー・ディグレゴリオとの会談の日取りは、1966年1月下旬の金曜日の夜11時とした。
その日、我々が到着して夜11時を過ぎてからも、ディグレゴリオらは現れなかった。
我々は不審を抱いたが、会談の仲介をしたソレーノ・タルタメッラ(ボナーノ・ファミリーの幹部だったジョン・タルタメッラの息子)から電話があり、「ガスパーの具合が悪くなって出席できなくなった。他のメンバーは道に迷ってしまった」と伝えてきた。
タルタメッラは、「もう一度、日時を設定し直してほしい」と言って電話を切った。
この事を皆に話すと、フランク叔父はこう言った。
「言い訳の辻褄が合っていない。
ガスパーは、向こう側の出席メンバーの1人にすぎんじゃないか。
それに(ディグレゴリオ・ファミリーの副ボスの)ポール・シアッカたちは、この辺りをよく知っているぞ。」
だが(私の部下の)カール・シマリは、「言い訳は、嘘ではないだろう。この状況で奴らが何かを企むなどあり得ない」と言った。
私はカールの意見を採用し、単なる駆け引きの可能性が高いと考えた。
我々はしばらく(会談場所の)家にじっとして、夜中の2時に出ることにした。
2時に外をうかがうと、すでに通りに人気はなく、私は「2人ずつ出発しよう、まずカールと俺が行く」と言った。
私とカールは玄関のドアを開けて、歩道へ続く階段に立った。
辺りを確認したが、不気味なほどに静かだった。
銃を持って階段を下り、交差点へ歩き始めたが、いきなり銃撃された。
カールはとっさに、私を歩道に突き倒した。
私たちは銃弾が飛んでくると思われる方向へ、闇雲に撃ち返した。
カールと私は、お互いに援護しながら走ったが、誰かがマシンガンで狙ってきた。
その銃弾は私の後ろの建物の壁に当たり、火花と壁の破片をシャワーのように降らせた。
カールと私は全力疾走を続けたが、1台の車が少し先の路肩に停まっているのが目に入った。
車内には2人の男がいた。
傍観者だったのかもしれないが、私たちはその車を撃って穴だらけにし、銃弾でガラスは砕け散った。
中にいた者は車を飛び出して、物陰に隠れたようだった。
大きな交差点にたどり着くと、私はカールに「二手に分かれよう」と言った。
すでにパトカーが近づいており、私たちは大通りの人混みに紛れ込んだ。
私は公衆電話を見つけ、ハンク・ペッローネに電話して、迎えに来てくれと頼んだ。
その時点では、他の者たちが逃げおおせたかは分からなかった。
朝になって、皆が脱出に成功していたと連絡があった。
後で知ったが、我々を狙った者の1人は、逃走中に住民の住まいのリヴィング・ルームの窓を突き破って侵入し、別の部屋の窓を破って裏庭へ逃れていた。
フランク叔父は、「奴らと会って話し合うなんて間違っていると言っただろう」と、私に反省を促した。
しかし私は、「今は内輪で非難し合う暇はない」と切り返した。
私たちは話し合い、「復讐する」という結論になった。
重要なのは、あそこで発砲してきた連中は誰なのかだった。
銃撃戦から3日後に、司法当局から召喚状が来た。
その時に私は、2つの決定を下した。
1つは、あの撃ち合いをメディアに話し、アメリカ中のファミリーに状況を知らせつつ、情報を収集することだ。
私は知り合いのレポーターに連絡して、1日後には話したことが記事になった。
もう1つは、父を訪ねることだった。
私は、父の居場所へ車を飛ばして、報告をした。
父は、私の判断がまずかったこと、そもそも話し合いに応じるべきではなかったことを指摘し、強力にやり返す以外に選択肢はないと強調した。
それからしばらくして、私はニュージャージー州のボスであるサム・デカヴァルカンテにメッセージを送った。
彼はコミッションとの仲介役だった。
私は彼を通じて、「あの待ち伏せの結果、全面戦争が始まる。これ以降は、我々の味方ではないファミリーは、すべて敵と見なす」と、コミッションに通告した。
その2日後に、FBI捜査官のディック・アンダーソンが自宅にやってきた。
私は不在だったが、妻がそれを報告し、私はアンダーソンと会った。
アンダーソンは「先日の撃ち合いについて教えてくれ」と切り出したが、私は「何も知らない」と答えた。
すると彼は、「あんたが宣戦布告して、味方する者以外はみんな敵だと見なすと決めたと聞いたが」と言った。
私は凍り付いた。
どこからか情報が漏れていると分かったからだ。
後で明らかになったが、サム・デカヴァルカンテのオフィスの会話は、18ヵ月も前からFBIに盗聴されていた。
私たちボナーノ・ファミリーは、(戦争中のため)厳戒態勢を維持しなくてならず、通りに出る時はしばしば変装した。
私は片足の悪い人間を装うことが多く、その頃は私が本来の歩き方をしている姿を見た者は1人もいない。
そんな中でも、私は何度か妻ロザリーに会った。
彼女が欲しかったからだ。
その時は、手下が彼女のところへ行って、私が会いたがっていると告げる。会う場所は教えない。
ロザリーは男たちの車に乗り込むが、車の床に伏せて、目隠しをする。
そして私のいる建物に案内され、2時間ばかりベッドで一緒に過ごす。
情事が終わったら、彼女は再び目隠しされて、自宅に戻るのである。
私たちが襲撃犯の情報を得たのは、大陪審を通じてだった。
ある日、裁判の中で、銃撃の現場で回収された銃を見せられた。
私はその1つに見覚えがあった。
その拳銃は、特異なサビが浮いていて、フィル・ラステッリという者の持ち物だった。
フィル・ラステッリは古手の殺し屋で、ガスパー・ディグレゴリオに近い人だ。
私はこの情報を得た後、父が戻ってきて直接に指揮をとる時期がきたと結論した。
だが父には逮捕状が出ており、それが出来なかった。
(2022年11月13~14日に作成)