バナナ戦争③
ジョゼフ・ボナーノの自首、
長引く戦争で家庭崩壊

(『ゴッドファーザー伝説(ジョゼフ・ボナーノ一代記)』ビル・ボナーノ著から抜粋)

1966年2月の初めに、私の父でボナーノ・ファミリーのボスであるジョゼフ・ボナーノは、「自首するから段取りをしろ」と私に指示した。

(※当時のジョゼフ・ボナーノは、元仲間のマフィアと抗争中で、なおかつFBIに追われており、身を隠して暮らしていた)

それからの私は、アメリカ政府との交渉役となり、弁護士のアル・クリーガーを雇って、FBIのディック・アンダーソンと連絡を取った。

アメリカ政府(のFBI)と話し合いを続けた結果、父は裁判妨害罪で3年の罪を受け入れて、その3年のうち2年は保護観察に減刑され、実際に服役するのは9ヵ月と20日となり、その他の告訴は取り下げられる、と決まった。

この取引条件を、父に話したところ、父はきっぱりと拒否した。

そこで私は、さらなる成果を求めて、再びFBIと交渉した。

そして1966年5月初旬に、合意に達した。

その合意は、父がニューヨークのマンハッタンにあるFBIのオフィスに赴いて自首し、(上述の条件に加えて)保釈金は5万ドル、告発の手続きの前に半年間の自由を保証する、という内容だった。

FBIは、父が裁判妨害罪だけでも自白して、減刑を歎願する、というのを条件にしてきた。

この事を父に話し、段取りを説明したところ、父は「何であれ自白はしない」と言った。

その言葉を聞いて、私は耳を疑った。

父は言った。

「連邦裁判所へ行って、『来てやったぞ、訊きたいことがあるなら訊くがいい!』と言ってやる」

私は反論したかったが、出来るはずもなかった。
彼はファミリーのボスだからだ。

クリーガー弁護士に父の話したことを伝えると、彼は信じられないという顔をし、「保釈金は天井知らずになるし、法律が厳密に適用されるぞ」と言った。

私は50万ドルは確保したが、もっと保釈金がかかる可能性があるので、妹夫婦に会い『家を担保として提供してくれないか』と頼んだ。
彼らは同意してくれた。

父は連邦裁判所に行き、自分がジョゼフ・ボナーノであることを裁判官に告げた。

ロバート・モーゲンソー連邦検察官が現れて、父の逮捕の手続きに入った。

モーゲンソーと、クリーガー弁護士の話し合いが始まった。

保釈金をいくらにするかや、父が公的に行方不明になってから19ヵ月が経っていたが、その間止まっていた大陪審への父の召喚をどうするか、などである。

フランケル判事は、保釈金を15万ドルとし、父に対して「この裁判所の司法権内に留まるように」と命じた。

ただし、父の家があるアリゾナ州ツーソンへの旅行は許された。

法廷を出る頃には、リポーターやカメラマンが群がっていた。

私は父と抱き合い、記者をミスリードするのは悪いと思いながらも、「2年近く父を見ることがなく、ずっと殺されたのではと心配していた」と語った。

61歳の父は、当面の刑務所行きは免れて、とりあえず自由の身となった。

(※自首したことで、FBIに追われる事はなくなった)

そのお祝いパーティを開いたが、その最中にジョー・ナタロが心臓発作で急死した。

ジョー・ナタロは、ボナーノ・ファミリーの重鎮だったが、心臓に問題を抱えていた。

彼は、父が失踪してからは、政府の捜査の矢面に立ち、数え切れないくらい大陪審に出ていた。

事実、この急死した時も、スーツのポケットに召喚状を携えていた。

私にとってナタロは、フランク・ラブルッツォ叔父と同様に、絶対に信頼できる人だった。

実際に、私の所在をいつも知っているのは、ボナーノ・ファミリーの中でもこの2人だけだった。

その1人が逝ってしまった。

ナタロの葬儀は、政府の捜査員も大勢が姿を見せて、出入りする者の写真を撮り、すべての車のナンバー・プレートを記録した。

ボナーノ・ファミリーは戦争中(他のマフィアと抗争中)だったので、父を私の家にかくまう事にした。

手下を常駐させて、武装キャンプみたいにしたのだが、妻のロザリーにはとても辛い日々となった。

ロザリーは孤立し、父を怖がっていた。

彼女は、手下たちの誰ともほとんど口をきかなかった。

私は仲間と相談して、コミッションにメッセージを届けることにした。

その内容は、父は元気であり、今でもボナーノ・ファミリーのボスであること、父が直面しているのは従兄弟のスティーブ・マッガディーノとのいさかいで、解決できるものであること、だった。

このメッセージの目的は、スティーブがコミッションの支持を得ているのか見極めることだった。

コミッションに行った使節団が戻ってきて報告したところでは、スティーブ・マッガディーノの強い支持者はいなかった。

この時のコミッションは、議長はカルロ・ガンビーノで、(服役中の)ヴィト・ジェノヴェーゼの代理でトミー・エボリ、ジョー・コランボ(いまやプロファッチ・ファミリーのボスになっていた)、デトロイトのジョー・ゼリッリ、トミー・ルッケーゼの代理のカーマイン・グリブス、それにスティーブが出席者だった。

コミッションの日和見な態度は、トミー・ルッケーゼが居ないことが原因かもしれなかった。

ルッケーゼは、脳腫瘍と診断されて、引退状態になっていた。

ジョー・コランボは問題に関わりたがらず、「自分の意思を持つには未熟すぎる」として発言を断った。

スティーブ・マッガディーノは、「ボナーノ・ファミリーに問題の原因がある」と述べたが、誰も彼を支持しなかった。

結局、コミッションは「ボナーノ・ファミリーと平和を維持する」と決議した。

はっきりしたのは、今や我々と対決するのはスティーブ・マッガディーノだけである事だ。

だがスティーブは、自分のファミリーをこの抗争に投入していなかった。

スティーブは、ニューヨーク州バッファローのボスだが、彼が部下をニューヨークの街に送り込んだら大騒動になる。

だから彼は、(元ボナーノ・ファミリーの)ガスパー・ディグレゴリオをけしかけるしかなかった。

解決しなければならない問題は、ボナーノ・ファミリーから向こう側への逃亡が続いていた事だった。

だが我々は、メンバーが減るにつれて強さを増していった。
メンバーは200人以下になったが、忠実で信頼できた。

1966年の春の終わり頃、ガスパー・ディグレゴリオの配下で一番の射撃の腕をもつフランク・マリが、我々の攻撃で負傷した。

しかし我々の側も、非戦闘員に損害が出た。

私はフランク・マリ襲撃の件で、大陪審に召喚されたが、協力を拒否したので法廷侮辱罪となり、保釈金を払った。

1966年の夏に、フランク・ラブルッツォ叔父が癌で倒れた。

そして8月に私がカナダに出張している間に死去した。

私は良き助言者を失った。

アメリカ政府とマフィアが大陪審で戦っていたこの最中に、奇妙なことに両者は協力することになった。

1966年を通じて、ニューヨークのサウス・ブルックリンでは、白人と黒人の争いが続いていた。

ニューヨーク市当局は、ガロ兄弟などのマフィアに接触し、「何とかしてくれ」と要請した。

ジョーイ・ガロは、白人地域(イタリア人が支配的だった)で集会を組織し、若い連中に大人しくするよう言った。

1967年の秋になると、アメリカ国内のマフィアのリーダーたちは、ニューヨークで抗争が続いていることに迷惑していたので、調停しようとニューヨークにやって来た。

彼らはクイーンズのラ・ステラというレストランに集まったが、カルロス・マルチェッロとサント・トラフィカンテもいた。

ボナーノ・ファミリーも招待されたが、近づかないことを選んだ。

この会合は警察の知るところとなり、集まった者たちは逮捕された。

メディアは「リトル・アパラチン事件」と報じた。

同じ1967年秋に、私は法廷侮辱罪の判決が出て、30日間の刑務所行きとなった。

ニューヨークのマンハッタンにある刑務所に入ったが、3階の全房をマフィアが独占していた。
驚いたことに、ここではファミリー間の争いは無かった。

看守とも友好的な関係を築いていて、マフィアの縄張りになっていた。
看守に色々と便宜をはかることで、見返りにワインなどの差し入れを大目に見てもらっていた。

一方、家にいた私の妻ロザリーは、相変わらず一緒に暮らす父(ジョゼフ・ボナーノ)とそのボディガードたちに苦しめられていた。

男たちが居座ることで、葉巻の煙とゴミが部屋に満ち、ロザリーは父を恐れて家の中を爪先立って歩いていた。

男たちが常駐していたので、その食費や武器などの維持費も膨れ上がっていた。

ロザリーはそういう問題を私に打ち明けなかったが、もし打ち明けたとしても私は耳を貸さなかっただろう。

疲れ切ったロザリーは、ある日に友達と映画を見に出掛けた。

それは公然の反抗だった。
なぜなら彼女は、家に押し込められて警備されていたからだ。

帰宅して父に叱責された彼女は、後に「恐怖で口もきけなかった」と言った。

この時期、父は(長引く抗争から)神経質になり、ひっきりなしに家の中を巡回しては、クローゼットや引き出しの中まで調べていた。

ある日に父は、私たちの寝室の引き出しを調べて、入っていた腕時計が無くなっているのを見つけ、ロザリーに知らせた。

彼女は、自分の部屋に入り込まれプライバシーを侵されたと感じた。

実のところ、彼女はいざという時のために貯金を始めていて、私の腕時計を質に入れたのだった。

1967年7月に、ロザリーは子供たちを連れて、家出してしまった。

書き置きや伝言は1つもなかった。

私はうろたえ、腹を立てた。
だがボナーノ・ファミリーは戦争中なので、対応する余裕がなかった。

ロザリーの母から「娘から心配いらないと連絡があった」との知らせが届くと、私はとりあえず満足した。

1ヵ月後にロザリーが連絡してきた時、私はもう話す気がなくなっていて、側近のハンク・ペッローネに対応させた。

私は、ロザリーが敵の手に落ちる危険のある行動を取ったことで、ボナーノ・ファミリーをも危うくしていると思っていた。

ロザリーが家出してから数日後に、私は家の鍵を取り替えた。

彼女が「家に入れないし、子供の1人が病気になり、お金もない」と電話してきた時、ようやく話をすることに同意した。

私は彼女と会い、カネを渡すとすぐにそこを立ち去った。

そして彼女に罠が仕掛けられていない事を1週間かけて確認した後で、彼女を家に戻した。

私のような生き方の人間は、そもそも結婚するべきではないのだろう。

マフィアは自らの組織と結婚しており、妻を持つと重婚になるのである。

(2022年11月15日に作成中)


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