(『ゴッドファーザー伝説(ジョゼフ・ボナーノ一代記)』ビル・ボナーノ著から抜粋)
1967年の終わりに、ニューヨーク・マフィアのボスの1人である、トミー・ルッケーゼが脳腫瘍で死んだ。
他のニューヨークのボスのうち、ヴィト・ジェノヴェーゼはまだ獄中にあり、瀕死の状態だった。
カルロ・ガンビーノは心臓発作に襲われ、スティーブ・マッガディーノの心臓も止まりかけていた。
ガスパー・ディグレゴリオも健康不良で、引退したも同然となり、後継者のポール・シアッカも同じ状態だった。
ボスたちは病人だらけだったが、ニューヨークでのマフィア戦争(※マフィア同士の抗争で、バナナ戦争と呼ばれた)は続いた。
1967年10月に、ボナーノ・ファミリーの構成員の2人、ヴィンチェント・カッセーセとヴォンチェント・ガルファロが銃撃された。
我々ボナーノ・ファミリーは反撃を決めて、レストランで3人を殺した。
この襲撃の第一目標は、スミッティ・ダンジェロだった。
スミッティ・ダンジェロは、かつてはボナーノ・ファミリーの幹部だったが、ガスパー・ディグレゴリオの一派に寝返っていた。
ダンジェロ以外の犠牲者は、彼の弟のジミーと、友人のフランク・テレッリである。
私の父(ジョゼフ・ボナーノ)は、1968年に入ると、アリゾナ州ツーソンの自宅に戻って暮らした。
私は戦争の資金を調達するため、(ボナーノ・ファミリーの縄張りの1つである)アリゾナ州に行くことにしたが、幹部たちから上がってくる月々の上納金を旅費に充てるつもりだった。
ところが上納金が手元に届かなかったので、私の側近のハンク・ペッローネの仲介で、ドン・トッリーロのクレジットカードを借りることにした。
トッリーロは、元はペッローネの使い走りで、不動産の投資家になっていた。
私がアリゾナ州ツーソンで2~3週間を過ごしたある日、店でクレジットカードを使おうとすると、本人ではない事がバレてカードは没収された。
私はハンク・ペッローネに電話して事情を話したが、「すぐにトッリーロに連絡する、心配ない」と請け合ってくれた。
だがその2時間後に、ペッローネはニューヨークの路上で射殺されてしまった。
電話でそのニュースを聞いた時、私は耳を疑った。
噂では、ペッローネを殺ったのはガスパー・ディグレゴリオの殺し屋である、フランク・マリだという事だった。
翌日にFBIが、私の滞在している父の家にやって来た。
2人のFBI捜査官のうち、1人はデイヴィッド・ヘイルという名前だった。
ヘイルは、一通の書類を取り出したが、大陪審への出頭を求める召喚状だった。
それで私は、ニューヨークに戻り、ブルックリンの裁判所に出頭したが、そこには敵方のファミリーの男たちも証言をしに来ていた。
大陪審の初日に、私の長年の友人だったが向こう側に寝返ったマイケル・コンソーロと話をした。
彼はその晩に、自宅近くで射殺された。
この大陪審では、昔から当てにしていた(ボナーノ・ファミリーの副ボスの)ジョニー・モラレスが、心変わりした事にも気付いた。
彼を見つけて歩み寄ると、彼は視線をそらして私を見ようともしなかった。
あとで父が教えてくれたが、モラレスはボナーノ・ファミリーの中に分派を形成していた。
ある晩、フランク・マリが行方不明になった。
それを私に知らせたのは、ボナーノ・ファミリーの幹部のアンジェロ・カルーゾだった。
1968年4月初旬のある晩、ボナーノ・ファミリーの構成員が襲われ、1人が殺された。
逃走してきたもう1人が、「狙撃者はコランボ・ファミリーの殺し屋だった」と報告した。
この数日後に我々は、コランボ・ファミリーの幹部であるチャーリー・ロチチェロを射殺した。
この直後に、カルロ・ガンビーノが父に接触してきて、和平の段取りをすると申し出た。
父はファミリーの幹部を招集し、「自分は引退して、新たな上層部を指名する」と宣言した。
私も一緒に引退させられるのは明らかだった。
引退して西部の縄張りに引っ込むという父の決断は、会議で詳細に語られたが、異議の申し立ては1つも上がらなかった。
部屋の雰囲気は重たかった。
ガンビーノらとの話し合いをする役目は、私、ジョー・バヨンヌ、ヴィト・デフィリッポが指名された。
話し合いは数日にわたって行われ、ガンビーノ、スティーヴン・ラサッラ、ジョー・コランボ、カーマイン・グリブスを相手にしたが、疑いと緊張に満ちたものだった。
だが父とガンビーノの間で合意していた事を、正式な形(ニューヨーク・マフィア全体の合意)にまとめ上げた。
戦争を終えて、どの陣営も恨みを持たず、父は引退を表明する、という内容だった。
父は、自分が長く率いてきたファミリーの新しい執行部として、ジョー・バヨンヌ、ヴィト・デフィリッポ、アンジェロ・カルーゾの3人を指名した。
カルロ・ガンビーノは、1960年からコミッションのメンバーで、多くのボスが亡くなったため古株のボスになっており、父が引退したことから、今やニューヨーク・マフィアの長になった。
(※ここまでを読むと、ジョゼフ・ボナーノと息子のビル・ボナーノは引退したように思える。
だが、この先を読んでいくと徐々に、引退しなかった事が明らかになる。
ボナーノ・ファミリーは、あくまでニューヨークから去ったにすぎず、アリゾナ州などでマフィアとして活動を続けた。)
私と、私の家族は、カリフォルニア州のサンノゼに移住を決めた。
そこは妻ロザリーの妹や、私の妹が住んでおり、すでに家があった。
父はアリゾナ州ツーソンの自宅に戻ったが、間もなくニューヨークの大陪審から召喚状が届いた。
父はこの直前に心臓発作に襲われており、診断の結果、ニューヨークへの旅行に耐えられないとされて、召喚状は脇へ置かれた。
ところが父が入院している間に、脅迫の電話があった。
「我々はミスター・ボナーノを殺す」と、電話の男は言ったのである。
これを知らされて、私はツーソンに向かった。
私は、24時間警備をさせる段取りをした上で、父を自宅に戻した。
そして私は、手下3人と共に父の警護をした。
何も起きないまま、6月が過ぎ、7月になったが、危険が去ったとは思えなかった。
というのも、脅迫状が届き続けていたからだ。
気になったのは、我々の内情を知らないと書けない事も含まれていたことだ。
7月の終わりに、脅迫は爆弾の爆発で現実となった。
狙われたのはピート・リカヴォリで、父の長年の友人で、アリゾナ州に住んでいた。
爆弾は物置と4台の車を破壊しており、爆弾の知識のある者の犯行なのは明らかだった。
その2日後の晩、私が両親と家にいると、飼っている犬が唸り声を上げ始めた。
私はショットガンを持って庭に出たが、逃げていく姿を見つけたので発砲した。
命中した手応えを感じたが、その時に爆発が起きて、私は10~15フィートほど吹っ飛ばされた。
その爆弾は、ガレージを破壊し、両親の寝室の窓を割って、ガラス片がそこら中に飛んだ。
両親は幸いにも無傷だった。
サイレンが聞こえると、私は(発砲していたので)「警察が帰ったら戻ってくる」と両親に告げて、逃走した。
次の日の夜、父と一緒にアリゾナに移住してきていた、ボナーノ・ファミリーの幹部だった故ジョー・ナタロの従兄弟のピートの家で、爆発が起きた。
新聞や地元の議会は、「ボナーノ・ファミリーがマフィア戦争をツーソンに持ち込んだ」と非難した。
我々は犯人を捜したが見つからず、警察が犯人を1年半後に逮捕した。
犯人はポール・スティーヴンズという元海兵隊の爆弾専門家で、法廷に現れた時は肩に受けた(私が撃った)ショットガンの傷が治りかけたところだった。
もう1人の逮捕者は、ウィリアム・ダンバーで、FBIに雇われていたとサンドラ・ヒッチコックの証言で分かった。
FBIはすぐにそれを否定したが、サンドラの証言からFBI捜査官のデイヴィッド・ヘイルが黒幕だったと明らかになった。
(※デイヴィッド・ヘイルは、この記事の上のほうですでに1度登場している)
ヘイルは「何も知らない」と否定し、FBIも「ヘイルが職員だったか知らない」と発表した。
だがスティーヴンズとダンバーが、裁判ですべてを話した。
ヘイルはマフィアに関する連続セミナーを主催していて、その参加者を悪(マフィア)の排除に誘ったのである。
この事が報じられると、ヘイルはFBIを辞めて、誰からも告発されることなく街を去った。
しばらくしてレポーターが、デイヴィッド・ヘイルがフロリダ州の警備会社で仕事をしているのを見つけた。
ヘイルは召喚状によってアリゾナ州へ呼び戻されたが、アメリカ憲法・修正第5条を盾にとって、ことごとく質問への回答を拒否した。
それなのにヘイルは許されて、スティーヴンズとダンバーも罪を軽減されて286ドルを払って釈放された。
デイヴィッド・ヘイルが、単独でボナーノ・ファミリーの撲滅を計画したのではないことは、言うまでもない。
スティーヴンズとダンバーが釈放されると、すぐにFBIと警察が父の家に家宅捜索に押しかけた。
その目的は、父の仲間であるチャーリー・バッタグリアの脱獄計画と、ヘイル殺害計画の証拠を見つけるためだったと思われる。
彼らはいかなる証拠も見つけられなかったが、父を逮捕した。
FBIは、ボナーノ・ファミリーを片付けたかったのだ。
そこで陰謀をでっち上げた。
FBIによると、レヴンワース刑務所にいるチャーリー・バッタグリアは父へ手紙を出して、父がバッタグリアの出獄に努力するのと引き替えに、自分がヘイルを排除すると書いたという。
法廷で明らかになったが、手紙はバッタグリアが書いたものではなく、同房者が口述したものを、他の囚人が書いたものだった。
さらに、その同房者はアメリカ政府のために仕事をするよう、圧力があった事も認められた。
我々は無罪を勝ち取った。
父がFBIに狙われる中、私はしょっちゅう大陪審に出廷していた。
容疑の1つは、(この記事の一番上のあたりで書いた)クレジットカードの不正使用だった。
1969年11月の裁判で、クレジットカードの持ち主のドン・トッリーロは証言台に立ち、「カードは奪われて不正に使われた」と述べた。
この件で仲介役だったハンク・ペッローネは、(前述したとおり)すでに死んでいた。
私の弁護士のアル・クリーガーは、トッリーロがカードの申請時に虚偽の所得申告をしていたこと、経歴も偽造していたこと、を認めさせた。
さらにクリーガーは、ペッローネが殺された数日後にトッリーロが麻薬所持で逮捕されていた事も明らかにした。
重要なのは、政府がトッリーロに圧力をかけて、証言台に立たせた事実だった。
しかし私と、仲間のピート・ナタロは、この裁判で有罪を宣告された。
37歳になった私は、5年の実刑を言い渡された。
私はそれからの20年の大半を、刑務所を出たり入ったりして過ごすことになる。
(2022年11月15日に作成)