ビル・ボナーノは刑務所で、
ジョニー・ロセッリからケネディ暗殺の話をきく

(『ゴッドファーザー伝説(ジョゼフ・ボナーノ一代記)』ビル・ボナーノ著から抜粋)

私(ビル・ボナーノ)は、1969年11月に、5年の実刑判決を受けた。

だが、アメリカ政府から追及されていたマフィアは、ボナーノ・ファミリーだけではなかった。

ほぼ同じ頃、カルロ・ガンビーノは現金輸送車の強奪の容疑で、告訴された。

ヴィト・ジェノヴェーゼの後継者であるジェラルド・カテナも、告訴されて有罪となった。

マイヤー・ランスキーとジョー・コランボも、告訴されて有罪となった。

1960年代の終わりから70年代の初めにかけて、アメリカ政府はイタリア・マフィアの排除を行った。

ボナーノ・ファミリーは起訴されて、私だけでなく、父と、私の弟も、有罪となった。

父は裁判妨害罪で有罪になり、1981年に76歳という年齢で、9ヵ月と21日の懲役刑となった。

政府はすでに、マフィアと組むのは得策でないと気付いていた。

マフィアは集票マシンとして機能しなくなっていたし、ケネディ大統領の暗殺(※これはCIAとマフィアと亡命キューバ人が共謀した)が一線を画する原因になった。

私は(前述のとおり)1969年に刑を宣告されたが、服役したのは71年1月になってからだった。

カリフォルニア州のターミナル・アイランドの連邦重罪刑務所に入ったが、比較的に穏やかな所で、羽を伸ばそうと考えた。

私は幸運で、刑務所のナンバー・スリーの立場の人の事務係になれた。

彼のために書類を作成し、定期的にワシントンに送る仕事だった。

もう1つ幸運だったのは、囚人仲間が私を尊敬してくれて、囚人会議の議長に選ばれたことだった。

ある時、刑務所の所長が私のところへやって来た。

新しく入った囚人の扱いに困っていると言う。

その囚人はゴードン・リディで、ウォーターゲート事件の実行犯であり、元FBI捜査官でもあった。

所長は、リディが一般囚人と一緒になったら殺されるのではと心配していた。

私は「何日か時間を下さい」と言い、囚人のボスたちを集めてその話を伝えた。

ボスたちは「問題ない、危害を加えられることはない」と言い、リディは我々の前に姿を現した。

私は、ゴードン・リディと友人になり、沢山の話をした。

彼と話している時、私はリチャード・ニクソン大統領のことを考え続けた。

ニクソンは、リディのような友人たちや、マフィアの知り合いに、背を向けた。

だがそういう盟友がいなければ、彼はどこへもたどり着けなかった。

ニクソンは、仲間のベベ・レボゾを通じて、フロリダ・マフィアのサント・トラフィカンテと仕事をしていた。

さらに不動産取引、カジノ免許の取得手続き、反カストロの活動にも、関わってカネを儲けていた。

またニクソンは、リゾート・インターナショナルのジェイムズ・クロスビーと友人だが、クロスビーは暗黒街と関わりがあった。

他にもニクソンは、マイヤー・ランスキーの仲間のアーサー・ドレッサーと仕事の取引をしていた。

ある時ドレッサーは、フロリダの不動産に投資するというニクソンに、大金を貸してやった。

そこはベベ・レボゾのキー・ビスケイン銀行がある所で、その銀行はカジノの儲けをマネー・ロンダリングするために使われていた。

ニクソンに近い暗黒街の住人は、他にもアーンホルト・スミスや、ルイス・リプトン(別名フェリクス・アギーレ)やジョン・アレッシオがいた。

ゴードン・リディは、ニクソンのそういう人脈には無関心で、唯一の関心は反共だった。

その後に、私は同じ刑務所でジョニー・ロセッリに再会した。

ロセッリは、私よりずいぶん年上(私の父と同じ年齢だった)のマフィアで、1905年にイタリアのエスペリアで生まれた人だ。

本名はフィリッポ・サッコだったが、1911年にアメリカへ来た時に法律上の問題が生じて、ロセッリと改名した。

ジョニー・ロセッリは、シカゴの貧民区で育ち、シカゴ・マフィアのボスたちと関係を結んだ。

彼は固定した縄張りは持たず、場所を移しながら各地でシカゴ・マフィアに代わって仕事をする役目だった。
いわば無任所大臣だった。

彼は特別な力を付与されていて、ボスの1人だった。

ロセッリは、アメリカ西海岸では映画界の労働組合を管理していた。

だが彼は、常にシカゴ・マフィアにおいてナンバー・ツーの扱いだった。

私と再会した時のロセッリは、自分のボスである(シカゴ・マフィアのトップにいる)サム・ジャンカーナに幻滅して、怒りさえ覚えていた。

彼は現在起きている問題、出生記録の偽造とロスアンジェルスのフライアーズ・クラブを騙そうと企んだ件で、ジャンカーナを非難した。

ジョニー・ロセッリは、ケネディ大統領の暗殺に関わったと噂されていた。

サム・ジャンカーナと繋がっているし、折り紙つきの銃の名手だったからだ。

私が仰天したのは、ロセッリがケネディ暗殺について話すと、抑制がきかなくなる事だ。

ある日に彼は、「(オズワルドを射殺した)ジャック・ルビーはユダヤ教徒だったが、ろくでもないボス(サム・ジャンカーナ)よりはるかに忠実だった」と、大声で言った。

彼は、同じ刑務所に服役している亡命キューバ人ともベラベラしゃべったが、そのうち何人かはピッグズ湾事件に関わった者で、カストロ暗殺の計画にロセッリが関わったことを知っていた。

亡命キューバ人たちが、カストロの排除を狙ったことに感謝の意を表すと、ロセッリは頷いて親指を立てて見せた。

私はロセッリと2人だけの時に、イタリア語で「一体どうしたんだ」と訊いてみた。
彼の軽率な振舞いが気になったからだ。

彼はイタリア語で答えた。

「あのろくでなし野郎(サム・ジャンカーナ)は、昔からお前の親父さん(ジョゼフ・ボナーノ)を嫌っていたんだ。

1956年のコミッションの会議を憶えているか?
あの時は、お前の親父さんが議長を務めていた。

サムは何かで腹を立てて、席を立って出ていこうとした。
その時、お前の親父さんが『座れ!』と命じたんだ。

そうしたらあの野郎、腰でも抜けたみたいに椅子にへたり込みやがった。

それ以来、奴は親父さんに敵意を抱き続けていたんだ。」

「彼がボナーノ・ファミリーに敵対行動を起こしたことなんか一度もないぞ、ジョニー」

「奴は、自分では行動を起こさない。決して自分では手を下さないんだ。

俺は、車を待たせていることになっていた。

そこに車が待っていたと思うか?
待っていたのは糞だ。

そして俺は銃を持ったまま、溝から這い出そうとしていた。」

突然のロセッリの言葉に、最初は何の話か分からなかったが、彼はケネディ大統領の頭を吹っ飛ばした時のことを話していた。

「サム(・ジャンカーナ)も俺も、俺が狙撃を実行することを了解していた。

俺はパレードの車列に面した、エルム・ストリートの雨水管に位置をとっていた。

我々のチームは、あの捨て駒(オズワルド)を含めて4人だったが、サムも他の連中も撃つのは俺だと知っていた。

我々は隠れ家を持っていて、それ以前にも2度、そこへ集まっていた。

サムは、狙撃した後に俺がどうするかを、確認したがっていた。

俺は(暗殺の)前日に、予行演習までやった。
その時には、トリニティ・リヴァーから3ブロックの所に、車があったんだ。

だが、当日はそこに車が無かった。

俺は、鉄の横木に立って、(ケネディ大統領の)車が曲がってくるのを見ていた。

奴(ケネディ)の頭は10フィート(※100フィートの間違いか)ほど向こうにあり、打ち損ねるわけがない。

そして奴の頭が吹っ飛ぶのが見えた。

あのトンネルの中をネズミのように逃げていく間、発射炎(発射煙)を見られたに違いないと考え続けていた。
逃げきれるはずがないと。

心臓は破鐘のように打っていた。

そして、あるはずのバックアップ(車)が無かったんだ!

俺は大統領を殺した。それなのにバックアップが無かったんだ!

サムは、手違いだとぬかしやがった。

だが俺は嘘だと見抜いたよ。奴のことをよく知っているからだ。

あいつはあんな手違いをしでかす男じゃない。
俺なら捕まっても口を割る心配がないことを、あいつは知っていたんだ。」

ケネディ暗殺の時、エルム・ストリートの雨水管は封じられていなかった。

その一帯の警備や、ビルの窓や雨水管を閉ざすのは、シークレット・サービスの責任だったが、意図的にそれをしなかった。

ジョニー・ロセッリは、数週間後にターミナル・アイランドの刑務所から移された。

そして1976年、出獄してからしばらく経ったある夕刻に、煙草を買いに行くと言ってフロリダの家を出た。

そして2度と戻ってこなかった。

1週間ほどして、彼のバラバラ死体がビスケイン湾に漂う60ガロン入りのドラム缶の中で発見された。

(2022年11月16日に作成)


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