(『ケネディ暗殺』ロバート・モロー著から抜粋)
1961年3月11日に、キューバ侵攻についてホワイトハウスで会合が開かれた。
ケネディ大統領は、「トリニダード周辺は侵攻の上陸地点として目立ちすぎる。他を検討しろ。」と命じた。
2週間後に、トリニダードの西100マイルにあるピッグズ湾が、上陸地点に選ばれた。
その一方で、ケネディがキューバ侵攻計画を停止させている中(再検討している中)、カストロ政権はキューバ国内のレジスタンス勢力(ゲリラ)を掃討していた。
ゲリラは全滅となり、キューバ侵攻は空から援助しない限り失敗は確実となった。
ゲリラは全滅する前に、「ソビエト製ミサイルのための基地は、間違いなく建設されている」と報告してきた。
この情報は、マリオ・ガルシア・コーリーを介してロバート・ケネディ司法長官に伝えられたが、ロバートは驚く事に関心を示さなかった。
ピッグズ湾侵攻の12日前に、ロバート・ケネディは、カルロス・マルセロをFBIを使って逮捕した。
マルセロはジェット機に乗せられ、グアテマラに強制移送された。
マルセロの逮捕で、資金源を絶たれたコーリーは、マフィアのドンであるマイヤー・ランスキーとサントス・トラフィカンテに援助を求めた。
コーリーは、「経済援助と引き換えに、自分がキューバ大統領となったら、ただちにキューバの賭博場に対するアメリカ・マフィアの利権をカストロ以前に戻す」と約束した。
この約束は、マーシャル・ディッグズのオフィスで、最終合意に達した。
1961年4月10日に、ケネディ大統領はキューバ侵攻に同意した。(ゴーサインを出した)
CIA幹部のトレーシー・バーンズによると、この決定はCIAのリチャード・ビッセルがある重要事項を伝えた事が理由だという。
それは、『ピッグズ湾侵攻は、キューバのカマグエイ郡にあるミサイル基地の偵察作戦を成功させるための、陽動作戦である』だ。
陽動作戦(ピッグズ湾侵攻)は、キューバ人亡命者のニノ・ディアスが指揮する事になった。
私とデイブ・フェリーは、キューバに建設されたミサイル基地の偵察任務に指名された。
私とフェリーは、4月16日にワシントンの海軍研究所に行き、カベルCIA副長官から説明を受けた。
「目的地はカマグエイ山地だ。
そこで、コーリーのゲリラ達と落ち合う。
飛行機で100フィート以下を飛べば、カストロのレーダーに引っかかる事はない。
我々は大がかりな陽動作戦を用意したので、君達が感づかれる事はないと思う。
2つの侵攻部隊が、君たちの離陸の1時間前にはキューバ海岸に接近する。
1つはピッグズ湾に上陸し、もう1つはグアンタナモ近くに上陸する。
2方面からの上陸で、キューバ軍は手一杯となるはずだ。
君達は、偵察を遂行してからお客を1人乗せ、戻ってくればいい。」
カベルCIA副長官は、さらに話を続けた。
「君達の任務は、2つある。
カマグエイから発信されていると思われるパルス信号を、我々はミサイルの誘導システムではないかと疑っている。
パルス信号を記録するなり分析するなりして、機能と発信地を特定してもらいたい。
それから、コーリーの部下のデル・バレ中尉を連れ帰ってもらいたい。
彼は色々な情報をもたらしてくれる人物だ。」
同日の午後、ニューヨークのホテルではCRC(亡命キューバ人の左派組織)のメンバーが会合をしていた。
CRCでは、マヌエル・アルティメが代表のポストを与えられていた。
アルティメらは、CIAに拉致され、軟禁状態となった。
リチャード・ニクソンとコーリーの間で交わされた『オペレーション・フォーティ』のとおりに、キューバ侵攻が成功したら彼らを殺すためだ。
私とデイブ・フェリーのキューバへの飛行は、マイアミから始まる事になっていた。
マイアミに入ると、オパ・ロッカ海軍航空基地に運ばれた。
そこにはツインビーチ機が1機用意されていて、フェリーは点検を始めた。
離陸してウーセプ島に寄り、偵察用の機材を積み込んだ。
スペクトル分析器や計測レーダーだ。
再び離陸して、キューバに向かった。
フェリーが超一流のパイロットである事を、彼の横に座っていて確信した。
カマグエイに着陸すると、マシンガンを持ったひげづらの男たち数名に囲まれた。
指揮官は、かつてマーシャル・ディッグズ邸で会った、デル・バレだった。
後で知ったが、デル・バレは裕福なキューバ人政治家で、フェリーにいくらか資金援助をしていた。
彼のグループは、コーリーの組織に参加していた。
私たちは、ジープに機材を積んで山頂に行き、オシロスコープに現れた波動を写真に収めた。
さらに、パルス信号を受信して、発信源の方位を割り出した。
そして飛行場に戻り、すぐに帰還することにした。
デル・バレは、マヌエル・ロドリゲスを私に紹介した。
彼はコーリーの右腕だった。
別れの挨拶をかわして、私、フェリー、デル・バレは、ツインビーチ機に乗り込んだ。
カストロ軍の戦闘機に襲われたが、何とか脱出し、マイアミの基地に生還した。
帰還中にフェリーが怪我をしたため、私は1人で、パルス信号をおさめた写真を腹部にテープで止めて、ジェット機でワシントンに戻ることになった。
ワシントンに着き、マーシャル・ディッグズのオフィスを訪ねると、彼はコーリーと話していた。
ディッグズは、まくし立てた。
「あのクソ大統領が。2度目の空爆を中止しやがった。
おかげで(キューバに)進攻した部隊は、虐殺された。
支援を禁じられたアメリカ海軍は、それを沖から見ているしかなかった。」
コーリーも言った。
「ハバナだけで20万人以上が逮捕された。
我々に協力する2~3千人のうち、100~200人は助かるかもしれん。」
私に分からなかったのは、どういう事情でケネディ大統領が前言を撤回する事にしたのかだった。
私が訊ねると、ディッグズが経緯を分析し始めた。
「ケネディに経験と勇気がなかったのだ。
彼は、上陸作戦(ピッグズ湾侵攻作戦)を米軍が支援しないことを決めた。
そしてアメリカのマスコミは、『侵攻前に行う空爆を、キューバからの亡命人が行った様に偽装する計画』を、暴露してしまった。
CIAは、キューバ空軍章を付けたB26を用意していたが、それをキューバは知り、キューバ国連大使が国連総会でその写真を見せた。
アメリカの国連大使であるアドレイ・スティーブンソンは、「ケネディ大統領が嘘をついた」と国連で表明し、大使の職を辞するとケネディに迫った。
これにケネディは震え上がり、侵攻作戦への空軍の支援命令を下せなくなったのだ。
ピッグズ湾の失敗は、責任の大部分はスティーブンソンにある。ケネディはヤツの首をハネていればよかったんだ。」
ピッグズ湾の失敗に激怒したケネディは、CIAの解体を誓った。
その対極では、侵攻作戦への米軍支援を許さなかった件で、右派のCIA局員とキューバ人亡命者の過激派は『反ケネディ勢力』を結成することになった。
CIAが、殺すために軟禁していたCRCの指導者たちは、4月19日にトニー・ベロナが警備兵の目を盗んで脱出した。
ベロナは怒り狂ってホワイトハウスに電話し、ケネディはアーサー・シュレジンジャーJrとA・A・バールを派遣して、一行の救出にあたらせた。
(2016年1月4日に作成)