(『ケネディ暗殺』ロバート・モロー著から抜粋)
ピッグズ湾侵攻の失敗から1週間たった、1961年4月23日に、CIA幹部のトレーシー・バーンズから電話があり、昼食に誘ってきた。
私がキューバのカマグエイ山地から持ち帰った証拠写真(キューバにあるミサイル基地の写真)は、すでにCIAに渡してある。
あれを専門家はどう見ただろうか。
レストランに着くと、トレーシー・バーンズとマーシャル・ディッグズがいた。
私はさっそく、その事を尋ねた。
バーンズは、こう言った。
「君が持ち帰ったあの写真に撮れた(オシロスコープの)波動は、コンピュータ制御のデジタル信号で、弾道ミサイルや宇宙船を誘導するために利用される。」
バーンズは、赤外線カメラで撮影された、キューバのカマグエイで撮られた弾道ミサイルの発射台の写真も見せてくれた。
そして、こう言った。
「ダレスCIA長官、カベル副長官、リチャード・ビッセル、そして(ここに居る)私たち3人、ケネディ大統領。
この件を知っているのは、それだけだ。
キューバにミサイル発射台があるとの疑いは、3月初めにカベルがケネディ大統領に報告した。
赤外線カメラの写真は、4月の1週目に(亡命キューバ人のマリオ・ガルシア・)コーリーが知らせてきた。
我々(CIA)は、データを入手しつつ写真を持つデル・バレをアメリカに連れてくるために、君をキューバに送り込んだのだ。」
話をきくうちに、『私とデイブ・フェリーがカマグエイに出発する前に、バーンズは米軍のキューバ空爆の中止命令が出たのを知っていた』と分かった。
(※米軍の空爆が無ければ、飛行機で潜入する2人はキューバ空軍から狙われる可能性が高まってしまう。
実際に、帰路ではキューバ軍の戦闘機から攻撃された。)
だがバーンズは、その事を私に伝えなかった。
配下の工作員への信義など、二の次だったのだ。
私は裏切られたと感じ、この一件以降、彼の言葉を2度と鵜呑みにすることはなかった。
トレーシー・バーンズは、さらに話を続けた。
「本題に入ろう。
すでに3月末に、ケネディ大統領は、我々に『キューバのミサイルから手を引け』と命じてきている。
そして今日、『持っているデータや写真をすべて引き渡せ』と命じてきた。
さらには、『新たな機関へ移管するので、プロジェクトに関わっていた全員の氏名を国防省に提出しろ』と命じてきた。」
私はこの情報に圧倒され、意味を理解するのに暫くかかった。
「新しい機関? それは何のことです?」
「それは、ディフェンス・インテリジェンス・エージェンシー(DIA)と呼ばれる事になるらしい。
CIAをずたずたにした後に、創設される。
それまでは、CIAはロバート・ケネディの監視下に入る。」
「つまり、キューバに弾道ミサイルの発射台があると知っていながら、ホワイトハウスはもみ消そうとしているわけですか?」
「そうだ。」
「でも、どうして? そのうちU-2偵察機が探知するはずです。」
「6万フィートの上空から探っていたら、1年はかかる。
コーリーの地下組織は、200ヤードの所までカメラを持ち込んだからこそ、カモフラージュを見破れたんだ。
君の持って帰ったデータは、確証となった。」
「ケネディ大統領は、キューバにミサイルがあるかもと知りながら、なぜキューバから手を引けとCIAに命じたのですか?」
「大統領は、対キューバ作戦のすべてを支配したいようだ。
新たな諜報機関を設立するのも、そのためだ。
ケネディは、ミサイルの情報を政治の武器として利用する気らしい。
情報を伏せておき、1962年の中間選挙の目玉に使うこともできる。
そういう事は、これまでも行われてきた。
『危機にある時は乗っている馬を(大統領を)替えるな』というわけだ。
ルーズベルトは、この政治ゲームの達人だった。」
(2016年1月4日に作成)