ジョゼフ・ボナーノとニューヨーク・マフィアとコミッション

(『ゴッドファーザー伝説(ジョゼフ・ボナーノ一代記)』ビル・ボナーノ著から抜粋)

私の父であるジョゼフ・ボナーノの若い頃は、多くの流血にまみれている。

父は、イタリアのシチリア島からアメリカにやってきたが、年上の従兄弟であるスティーブ・マッガディーノが後見人となった。

スティーブ・マッガディーノはすでにニューヨークのマフィアで、父はその子分となったのである。

父はそこで、(シチリア島の)カステラマーレ育ちの同胞と親しくした。

ある時、地元の大物が、父の密造酒の仕事を横取りしようとした。

父はその大物の男に敢然と立ち向かい、その男の口に銃口を突っ込んで、「2度とガタガタ言ったら、引鉄を引くぞ」と脅し上げた。

その男は、自分のボスであるサルヴァトーレ・マランザーノに訴え出た。

それで父はマランザーノの法廷に出ることになり、スティーブ・マッガディーノが弁護役を買って出た。

マランザーノは、父の申し立てを聞くや、父が脅しに屈しない勇気を見せたことを称賛した。

その直後から、父はマランザーノの側近へと上りつめていき、それをスティーブは傍らで眺めることになった。

サルヴァトーレ・マランザーノは、ニューヨーク・マフィアのボスの1人で、ジョゼフ・マッセリアと長い戦争(マフィア同士の抗争)を始めたが、街の通りは死屍累々のありさまになった。

アル・カポネは、この戦火の中で頭角を現し、シカゴに移住してボスになった。

私の父も、このニューヨークの戦争で頭角を現した。

マランザーノは、マッセリアが殺された後、マッセリア一派の生き残りのリーダーだったチャールズ・ラッキー・ルチアーノに殺された。

その後、ジョゼフ・ボナーノはルチアーノと和睦した。

私の父は、当時はまだ20代だったが、すでにカステラマーレ人(カステラマーレ育ちのイタリア移民)の支持を得ていた。

父はルチアーノと会い、「あんたと喧嘩するつもりはない」と告げた。

そしてニューヨークを2人で分割統治しようというルチアーノの提案を断り、「ニューヨークにいる5つのファミリーを受け入れて、争いが起きた時に調停するシステムを作ろう」と提案した。

この考えに基づいて、「平和委員会(コミッション)」が形成された。

ニューヨークの5つのファミリーとバッファローのファミリーによって構成されたコミッションは、やがて全米のファミリーも加わり、それから30年も平和が続くことになった。

そしてマフィアは繁盛したのである。

何かの争いが生じたら、コミッションが調停した。

例えば1938年には、ニューヨークのマンガーノ・ファミリーの副ボスであるアルバート・アナスタシアが、ダッチ・シュルツに唆されてニューヨーク地方検事のトーマス・デューイを暗殺しようとした事があった。

デューイはその2年前に、ラッキー・ルチアーノを告発して、刑務所送りにしていた。

アナスタシアがコミッションに出頭した時、暗殺計画は準備されて実行するだけになっていた。

私の父はアナスタシアと徹底的に話し合い、そんな事をしたら全ファミリーに危険が及ぶと諭した。

父はその時のことを回想し、私にこう言った。

「もし警官や政治家を殺していったら、我々はいつまで持ちこたえられたと思う?
デューイを殺すなんてあり得ない。

我々がすべきだったのは、彼をたらし込むことだ。
その方法が見つからなかったとしても、落ち度は我々にあるのであって、彼の側にはないんだ。」

そして実際に、トーマス・デューイをたらし込むのに成功した。

彼はニューヨーク州知事選に出ようとしており、ニューヨーク州サラトガに賭博利権を持っていたフランク・コステッロとマイヤー・ランスキーが、1939年に25万ドルの賄賂を選挙資金として渡した。

デューイは我々の友人になり、二度と脅威にならなかった。

コミッションによって生まれた長い平和は、私の父(ジョゼフ・ボナーノ)に『ゴッドファーザー』という名声をもたらした。

第二次世界大戦の時には、我々はアメリカ政府とも手をつないだ。

1941年にドイツの破壊工作員がニューヨーク港で、フランス船「ノルマンディ」を沈めた。

するとアメリカ海軍の情報部で活動していたニューヨーク地方検事のフランク・ホーガンは、ラッキー・ルチアーノと取引しようとした。

ホーガンは、ルチアーノの側近のソックス・ランツァと接触し、協力を要請した。

ルチアーノの答えは、「自分をダネモラ連邦刑務所からニューヨークに近いグリーンヘヴンの刑務所に移してくれるなら協力する」だった。

ルチアーノは、私の父にも支援を求めた。

その結果、第二次大戦が終わるまで、ニューヨーク港では破壊活動は起きなかった。

やがて連合軍がシチリアへ進攻すると、アメリカ海軍・情報部はルチアーノに再び接触した。

チャールズ・ハッフェンデン少佐が刑務所を訪れて、「刑期を短縮させるから協力してくれ」と伝えた。

ルチアーノはシチリア生まれだが、幼児の頃にアメリカに来ていて、シチリアとの繋がりを持っていなかった。

そこでまたもや、私の父に支援を求めてきた。

ヴィンチェント・マンガーノ、ジョー・プロファッチ、私の父は、シチリアと深い繋がりがあるので、アメリカ政府に情報を提供できた。

1947年の初めに、2度にわたってマフィアの重大な会合があった。

1つ目は、アメリカ政府によってイタリアへ国外退去されたラッキー・ルチアーノが、イタリア政府からヴィザを発給されてキューバにやって来て、全米のボスを呼んで話し合いをした。

この会合について、「そこでアメリカへのドラッグ持ち込みが合意された」とよく言及されるが、そんな合意は無かった。

2つ目は、上の会合から1ヵ月後にフロリダ沖のヨットの上で開かれたが、いくつかの事が決まった。

まず、フランク・コステッロが正式にルチアーノ・ファミリーの後継ボスに決まった。

次に、バグジー・シーゲルの排除が決まった。

バグジー・シーゲルは、ラスベガスの賭博利権に首を突っ込み、そのやり方が目に余っていた。

シーゲルはユダヤ教徒なので、同じユダヤ教徒のマイヤー・ランスキーが処理を担当することになった。

フロリダ沖の会合では、さらにドラッグ問題も取り上げられ、リベラル派のボスはヘロイン取引をやりたがったが、私の父に率いられた保守派によって「それはやらない」との決定が成された。

父がドラッグと売春に反対していたのは、この2つは我々の伝統や生活を害していくと信じていたからだ。

父はドラッグ売買の永久禁止を強く訴えて、コミッションはそれを議決した。

ただし保守派の中にも、部下がドラッグ売買や売春に手を出している事はあった。

(2022年11月7日に作成)


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