(『ケネディ暗殺』ロバート・モロー著から抜粋)
(亡命キューバ人で、反カストロ活動のリーダーである)マリオ・ガルシア・コーリーをフロリダに逃がすため、私とコーリーは飛行機でオパ・ロッカに向かった。
オパ・ロッカに着くと、(コーリーの部下の)デル・バレが待っていた。
私達は贅沢なモーテルに泊まったが、私はビミニにあるコーリーの銀行口座まで、軍資金を取りに行くことになった。
コーリーの指示は明快だった。
「25~35万ドルの金額で、小額紙幣で用意されるはずだ。
そのカネを受け取ったら、ここにトンボ帰りして、デル・バレに預けてくれ。
その後は、私をカナダのオンタリオ州のピーターボローに連れて行ってほしい。
そこにある会社と、武器売買の契約をする。
君が取ってきてくれるカネは、武器などの購入にあてられる。
カナダの次は、ヨーロッパに飛んで、武器の引き渡しに立ち合ってもらいたい。
ヨーロッパでの君の予定は、トレーシー・バーンズが教えてくれる。」
後で判ったのだが、コーリーの口座に軍資金を振り込んだのは、カルロス・マルセロ(ニューオーリンズ・マフィアのボス)だった。
(CIA幹部で私の上司である)トレーシー・バーンズから電話があり、こう言われた。
「ビミニで受け取るカネは、イギリスのポンド紙幣に替えなければならなくなった。
コーリーには伏せておいてほしいのだが、プエルトリコでポンドに替える。」
私は飛行機でビミニに行き、30万ドルの現金を受け取った。
そしてプエルトリコに向かい、指令通りにサン・ファンで最大のチェイス銀行に行き、ポンドに交換することにした。
交換を終えたが、カストロの手下と思われる者に尾行されているのに気付いたので、米下院議員のパウエルの屋敷に避難することにした。
私は、パウエルと面識があった。
パウエルは、米下院の教育・労働委員会の委員長をつとめる、大物政治家だ。
ケネディの友人だったが、反カストロの立場をとっていた。
私はパウエルに会い、CIAの工作員であることを話して、助けを求めた。
彼は承諾してくれた。
私は、彼の屋敷で一息つき、ニューオーリンズから来ている26歳の美女フランソワーズ・マネから誘われて、パウエル主催のカクテル・パーティに参加した。
その後、パウエルが警察署長に話をつけて、警察の護衛を受けてプエルトリコから出発できた。
オパ・ロッカに戻り、コーリーとデル・バレに再会した。
コーリーのカナダ行きは数日の延期になり、休息していると、フランソワーズ・マネから電話があった。
「近くのホテルにパウエルと来たが、パウエルはNYに発ってしまった」という。
私はさっそくホテルに行き、フランソワーズとSEXをしまくった。
情事に疲れ果ててベッドで寝入ったが、長くは続かなかった。
「起きろ、このヤンキー野郎。」
声で目覚めると、髭づらのキューバ人が立っており、銃が私の額に狙いを定めていた。
ベッドの向こう側では、若いキューバ人がフランソワーズの裸体に好色な目を向けていた。
髭づらは、矢つぎ早にまくし立てた。
「お前が持ち帰った30万ドルで、コーリーは何をしようとしている?
奴の居場所を吐いてくれてもいい。
それから、CIAはカマグエイで何をしていた?
あの晩(ピッグズ湾侵攻の日)のことだ。」
彼は多くの事を知っており、キューバのKGBといわれるDGIのメンバーだと判った。
私とフランソワーズは、椅子に縛りつけられた。
そして私は、ライターの火で向こう脛を焼かれる拷問を受けた。
だが、何の情報も話さなかった。
拷問の痛みで気を失ったが、目を覚ますとコーリーやデル・バレら大勢が室内にいた。
カストロの手下は殺されていた。
私はすぐに病院に運ばれた。
フランソワーズは、拷問で殺されていた。
私は数日後に、療養のためにボルティモアの自宅に戻ることにした。
自宅に着くと、上司のトレーシー・バーンズが待っていたので驚いた。
バーンズは言った。
「計画が変わってね。コーリーのカナダ行きは延期になった。
(コーリーの状況は変わり)この国を出るのに手を貸す必要がなくなった。
コーリーが求めている武器は、カナダのある会社を通じて、ヨーロッパでほどなく手に入ることになった。
30~45日の間に、君にヨーロッパに行ってもらいたい。
マドリードに行き、リッツ・ホテルにチェックインしてくれ。
例の30万ドルは、まだ手付かずの状態だ。
マドリードに着いたら、アメリカ大使館の商務官と電話してくれ。
コーリーは、ヨーロッパでシュマイザー銃とトンプソン銃を買う。
ジャック(ジャック・ルビー)という、クレイ・ショーの仲間を介してだ。
クレイ・ショーは、CIAの契約コンサルタントで、我々が隠れ蓑に使っているいくつかの会社とも関係している。
表向きの顔は、ニューオーリンズ・トレード・マートの重役だ。」
ニューオーリンズ・トレード・マートは、CIA工作のための組織だ。
元はワールド・トレード・センターといい、モントリオールで設立されて、1961年にイタリアに移された。
この組織の理事の1人に、クレイ・ショーも名を連ねていた。
バーンズは話を続けた。
「武器はカナダの某社によって斡旋されるが、引き渡しはギリシャで行われる。
君はギリシャに行き、支払いをすませてくれ。
クレイ・ショーの右腕がデイブ・フェリーで、ピッグズ湾侵攻の時に君を運んだパイロットだ。
(引き渡される)シュマイザー銃は、1944年にピレウスから撤退したドイツ軍が残していったものだ。
トンプソン銃は、アメリカのMAAG(軍事援助の顧問団)プログラムから流出したものだ。
フェリーが段取りをし、ショーがモントリオールで我々のダミー会社『パーミンデックス』の代表としてデル・バレと会うように計らってくれる。
パーミンデックス社は、設立者はOSSの少佐だったL・M・ブルームフィールドだ。
ブルームフィールドは、(ギリシャの)ピレウスにある同社の倉庫に武器をそろえてくれる。」
トレーシー・バーンズから武器密輸の説明を受けてから1週間後くらいに、マーシャル・ディッグズから呼び出されて、ワシントンの彼のオフィスに行った。
ディッグズの話は、こうだった。
「キューバ亡命政府の大統領になるというマリオ・ガルシア・コーリーの望みは、ケネディ大統領に認められた。
コーリーはワシントンに大使館を置きたがっていて、すでに物件を押さえてあるが、コーリーの代理人として君に賃貸借契約をしてほしい。
それから、君の妻のセシリーに、ほどなくCIAから任務がいく。
彼女には、キューバの10ペソ紙幣と50ペソ紙幣を複製してもらいたい。
リンドン・ジョンソン副大統領は、我々に情報を流してくれる。
だが、2つの問題を抱えている。
ギャングのボスの密使をしているミッキー・ウィーナーという弁護士と、ジョンソンは繋がっているらしい。
さらに、ビリー・ソル・エステスという男と密接に結びついているが、エステスは詐欺と殺人の疑いをかけられた。」
私はボルティモアの自宅に戻り、妻のセシリーおよびロス・スコイアーと、キューバ紙幣偽造の作業に入った。
そして、完璧な偽札をつくるにの成功した。
マリオ・ガルシア・コーリーはその作品に満足し、我々は何百万ペソ分もの偽札を印刷した。
大部分は、コーリーを介してキューバの地下組織に渡った。
1961年8月までに、(偽札のために)キューバ経済は混乱をきたした。
コーリーは、アメリカ軍のマックス・テイラー将軍から、『キューバ解放のための組織連合(UOLC)』を設立するように指示された。
1961年10月初旬に私は、コーリーから2人のマフィアのボスを紹介された。
シカゴのサム・ジアンカーナと、ラスベガスのジョニー・ロゼリだ。
コーリーは、私にキューバの新紙幣を見せた。
我々の偽造したペソが大量に流布したことで、カストロは紙幣を刷新し、新紙幣の偽造が必要になったという。
トレーシー・バーンズから電話があった。
密輸する武器が、すでにギリシャの倉庫にあるという事だった。
私は飛行機の予約をとり、スペインのマドリードに向かった。
マドリードの米大使館の商務官に会うと、「MATS(軍航空輸送部)の便で、(ギリシャの)アテネに飛び立つ用意が整っている」と告げられた。
アテネの空軍基地に着き、案内されてカフェに入ると、デイブ・フェリーが現れた。
フェリーは言った。
「結局、(武器の値段は)21万ドルでいいらしい。
ジャック・ルービーとクレイ・ショーの間で、思っていた以上にうまい商談が成立したんだ。
残りのカネは、他の武器にまわせる。」
倉庫に着くと、「パーミンデックスS・A」と記されていた。
中に入ると、箱が天井まで積み上げられていた。
「シュマイザー銃は2000丁ある。トンプソン銃は250丁だ。」と、フェリーは説明した。
デイブ・フェリーはさらに説明した。
「すべてを(イングランドの)リバプールに転送して、それから(中米の)グアテマラに送る。
書類にサインしたら、カネをいただこう。
3日以内に、全部を船に乗せる。」
私は21万ドルに相当するポンド紙幣を渡した。
ホテルに戻ると、朝にデイブ・フェリーから電話があった。
「あんたにテレックスが届いている。
パリ経由で至急アメリカに戻ってもらいたいそうだ。
飛行機は予約しておいた。」
パリのホテルに着き、ハミルトンと会った。
彼は大きな封筒を取り出し、こう言った。
「トレーシー・バーンズに言ってほしい。
『これがお望みのハーベイからの情報だ』と。」
ハーベイとは、CIA局員のウィリアム・ハーベイのことだ。
彼は元FBIで、私が帰国して数日後にCIAによるカストロ暗殺計画の指揮官となった。
彼は(その計画のため)、ジョニー・ロゼリ、サントス・トラフィカンテ、サム・ジアンカーナ、ロバート・メイヒュー、デル・バレらと頻繁に会った。
(2016年4月1&6日に作成)