(『ゴッドファーザー伝説(ジョゼフ・ボナーノ一代記)』ビル・ボナーノ著から抜粋)
1959年のある時、ジョゼフ・ケネディが私の父(ジョゼフ・ボナーノ)の仲介者であるスキップ・オブライエンに接触してきて、息子のジョン・F・ケネディ(JFK)の支援を、父に求めてきた。
私の父は「支援を行う」と伝えて、大規模な資金調達パーティを段取りし、ニューヨーク州の民主党の上層部や、実業家を出席させた。
父は私に対して、「ニューヨーク・マフィアの他のボスたちに、ケネディ支援を打診しろ」と指示した。
そこで私は、ジョー・プロファッチ、トミー・ルッケーゼ、カルロ・ガンビーノ、スティーブ(ステファノ)・マッガディーノに声をかけた。
ケネディ家について、マフィアのファミリーはそれぞれの感情を持っていた。
ジョー・プロファッチは、ケネディを全く信用してなかった。
クリーブランドとミシガンのボスは、労働組合に根をもつヒューバート・ハンフリー候補を支持していた。
フロリダ州タンパのサント・トラフィカンテは、(民主党の重鎮の)リンドン・ジョンソンを支持していたが、ケネディをさほど嫌がっていなかった。
ケネディが、キューバの(革命運動の指導者である)カストロに対して強硬な態度を見せていたからだ。
トラフィカンテは、キューバのバティスタ政権が倒れると大打撃をこうむる者の1人だった。
(※トラフィカンテは、キューバにカジノと麻薬の利権を持っていた)
ルイジアナ州ニューオーリンズのカルロス・マルチェッロは、強硬な反ケネディだった。
JFKの弟のロバートが、マクレラン委員会の代理人(弁護士)として、マルチェッロを起訴しようとしていたからだ。
シカゴのサム・ジャンカーナは、ケネディ支持だった。
その理由は、JFKがプレイボーイだからというもので、「あいつなら売春婦1人もくれてやったら、何でも俺たちの言いなりだ」と言っていた。
1959年の早春に、トミー・ルッケーゼは「我々が好ましいと思う民主党の候補者を選んで、我々の政治的な立場を1つにしてはどうか」と提案した。
これが受け入れられて、ボスたちがロスアンジェルスに集まった。
いくつもの会合がもたれ、激しい議論が戦わされたが、合意は成立しなかった。
多くの者が、リンドン・ジョンソンを支持していた。
それは当然で、ジョンソンは昔からカネになることは喜んでする男で、石油会社の手先だった。
大手石油会社は、我々マフィアの友人であり、クリント・マーチンソンやH・L・ハントはカルロス・マルチェッロと手を組んでいた。
それなりのカネを渡せば、ジョンソンが法案を通過させるために骨を折ることは、我々みんなが知っていた。
ジョンソンにはジャック・ハルフェンという仲間がおり、テキサス州で賭博をしていて、絶えずジョンソンにカネを渡していた。
我々がロスで会合をくり返していると、ジョゼフ・ケネディが電話してきた。
彼は女優のマリオン・デイヴィスの家に滞在していた。
ケネディ家がおおっぴらに接触してくるとは思ってなかったので、我々は驚いた。
ジョゼフ・ケネディは電話で、「息子の勝利のためなら何でもする」と伝えてきた。
トミー・ルッケーゼはそれを聞き、「ニューヨーク・マフィアのファミリーたちは、JFK支持で統一すべきだ」と言った。
ルッケーゼは言った。
「我々は合意を形成するためにここに来たんだ。我々が割れて何の意味がある?そこから何を得られるんだ?」
ルッケーゼは一流の政治家で、こう提案した。
「ケネディがジョンソンを副大統領に指名するというのはどうだ?
あの爺さんは何でもすると言った。
奴がうんと言わなければ、我々は奴の息子を支持しない。
うんと言えば支持する。
どうだ?」
トミー・ルッケーゼの提案に、皆が同意した。
というわけで翌日、ルッケーゼと私はマリオン・デイヴィスの屋敷に向かった。
ケネディに我々の条件を伝えると、「すごい考えだな、トミー」と彼は言った。
私たちは握手し、交渉は成立した。
その後に私とルッケーゼは、私の父(ジョゼフ・ボナーノ)らボスたちに、報告しに行った。
その道中、ルッケーゼはかつてない上機嫌さだった。
ルッケーゼと父は、ケネディの件の他にも、カルロ・ガンビーノが正式にファミリーのボスになるかも話し合った。
カルロ・ガンビーノは、3年前に、アナスタシア・ファミリーの暫定的なボスになっていた。
この件は、3年の観察期間を置くと、コミッションで決まっていた。
観察期間が終わったので、ルッケーゼは父に「ガンビーノを正式なボスにする事に異存はないか」と聞いたのである。
父は言った。
「お前さんたちに異存がないなら、私も受け入れる。
みんなが平和なら、それで結構だ。」
話を大統領選挙に戻すが、JFKは民主党の指名を得て、大統領選に勝利した。
JFKが大統領になると、私は2人のジョゼフについて考えた。
つまり、ジョゼフ・ケネディとジョゼフ・ボナーノについてだ。
この2人は、酒の密造からスタートして、不動産、株取引、映画へと歩みを進めて、巨大な冨を得た。
そして息子を、強力な後継者に育てようとしていた。
JFKは、我々マフィアの助けがあったおかげで、大統領選挙の動向を決定するイリノイ州で辛勝した。
イリノイ州におけるケネディの9千票差の勝利が、不正投票によって成し遂げられたことは、今や秘密でも何でもない。
(※イリノイ州シカゴを拠点とするマフィアのサム・ジャンカーナが、この不正投票で暗躍した)
イリノイ州の共和党は、実際には共和党候補のニクソンが5千票差で勝っていた証拠を見つけた。
だがニクソンは説得され、敗北宣言を出し、票の数え直しを放棄した。
JFKが弟のロバートを司法長官に任命すると、我々は不吉なものを感じた。
我々を排除しようとしているのではと疑った。
そこで私の父は、1961年の晩夏ころにスミッティ・ダンジェロを派遣して、ジョゼフ・ケネディに懸念を伝えた。
スミッティはこう報告した。
「何も心配しなくていい。息子たちと一緒にクリスマスを過ごすから、クリスマスが終わるまで待ってくれ。彼はそう言いました。」
しかしクリスマス前に、ジョゼフ・ケネディは重い発作に襲われ、1969年に亡くなるまで息子のやる事に関わることはなかった。
この時期には、もう1つ衝撃的な事件があった。
1961年4月に、(CIAとマフィアが支援する亡命キューバ人たちの)キューバ侵攻が失敗したのである。
ケネディ大統領は、キューバ侵攻をアメリカ空軍が援護すると約束していたが、それをしなかった。
マフィアのうちキューバに利権を持つ者たちは、これを裏切りと見た。
(2022年11月9~10日に作成)