(『ケネディ暗殺』ロバート・モロー著から抜粋)
1967年になると、ニューオーリンズの地方検事ジム・ギャリソンが、ケネディ暗殺の再調査に乗り出した。
ギャリソンは、デイブ・フェリー、ガイ・バニスター、デル・バレ、クレイ・ショーを追及した。
(※バニスターは64年に心臓発作で死亡していた)
67年2月22日に、デイブ・フェリーは自宅で死体で発見された。
リビングルームに裸で転がっていて、側には様々な処方剤の瓶が散乱していた。
ギャリソンは、フェリーの暗殺を想定してかかるべきだった。
新聞がケネディ暗殺の再調査を報じると、その日にフェリーはギャリソンの部下ルー・イボンに電話をかけて「あの記事のせいで、俺は死体も同然だ」と告げていた。
デル・バレも、フェリーと同じ日にマイアミで殺害された。
ギャリソンの部下が3日かけて見つけたが、銃弾をくらって死体となり、駐車場に停められた車の中に放置されていた。
クレイ・ショーは、CIA長官のリチャード・ヘルムズが守っているので、調査をしづらかった。
元CIA職員のビクター・マーチェッティは、1975年のインタビューでこう語っている。
「クレイ・ショーは、ケネディ暗殺のずっと以前に、CIAと関わりがあった。
ショーは輸出入の仕事にたずさわっていて、国内接触部(CIAの1部門で、トレーシー・バーンズが率いていた)と付き合いがあった。
デイブ・フェリーも、ピッグズ湾侵攻に関係していて、その当時はCIAの契約工作員か連絡員だった。」
クレイ・ショーも暗殺された。
1974年8月14日に、近くに住む人が、ストレッチャーに乗せられた死体がショーの家から馬車置き場の入口に運ばれていくのを目撃した。
連絡を受けた検死局の調査員が行くと、ショーの家はもぬけの殻で、調査の結果ショーは生まれ故郷に埋葬されたと判った。
リチャード・ヘルムズは1979年の裁判で、こう述べた。
「クレイ・ショーは、ある時期に国内接触部のパートタイムの連絡員でした」
私は、1972年の下院議員選挙に、共和党から出馬することにした。
マリオ・ガルシア・コーリーとはずっと接触を保っていたが、選挙の2週間前に彼から「伝えたい事がある」と連絡をうけた。
コーリーの話は信じがたかった。
大統領再選委員会(CREEP)のメンバーだと名乗る2人の男が現れて、「全米民主委員会はニクソン大統領とピッグズ湾侵攻について、壊滅的な情報を握っていて、それを選挙に先んじて公表するつもりらしい」と述べたというのだ。
さらにコーリーは、「部下を使って、全米民主委員会からそのデータを取り戻すことができるか。それをしてくれればニクソンは終生恩に着る」と、CREEPから(つまりニクソン大統領から)打診されたという。
そのデータが『オペレーション・フォーティ』の取り決めである事は、コーリーにも察しがついた。
話ができすぎていると感じたコーリーは、提案を拒んだ。
そしてほどなく、2人の男は実は民主党のために活動していると判明した。
この情報が役に立つかもと考えて、コーリーは私に教えてくれたのだ。
選挙の1週間前になると、リゾーツ・インターナショナルから電話があった。
リゾーツ・インターナショナルは、前身はフロリダ州のメリー・カーター・ペイント・カンパニーだ。
カーター・ペイントは、CIAの隠れ蓑としてトーマス・デューイとアレン・ダレスが設立した会社だ。
1958年にトーマス・デューイとその友人たちは、クロスビー・ミラー・コーポレーションを200万ドルで買収したが、その資金はCIAが出した。
59年にクロスビー・ミラー・コーポレーションは、CIAの所有するペイント・カンパニーに合併された。
同社は、亡命キューバ人にマネーロンダリングした上でCIAのカネを渡していた。
1963年に、フロリダのある土地のスキャンダルを経て、カーター・ペイントはペンキ部門を分離して、リゾーツ・インターナショナルとなった。
この会社は、バハマ諸島のマフィアの拠点として活動していた。
そして、バハマズ・アミューズメント・カンパニー(マイヤー・ランスキーの友人ふたり、ルー・チェスラーとウォーレス・グローヴズが経営者兼大株主だった)を介して、3つのカジノを支配していた。
バハマズ・アミューズメント・カンパニーとカーター・ペイントが関わるカジノが2つ、パラダイス島にあった。
1966年の司法省のメモには、「メリー・カーター・ペイントは、ウォーレス・グローヴズが所有することになる1つを除いて、パラダイス島のカジノ全部を手中に収めるつもりのようだ」と記されている。
バハマ諸島のカジノとマイヤー・ランスキーの関係が明らかになったのは、1970年の後半になってからだ。
ランスキーとその仲間のディノ・セリーニは、72年6月にマイアミで起訴された。
ニクソン大統領は、リゾーツ・インターナショナルのCEOであるジェームズ・クロスビーと繋がっていた。
クロスビーは1968年の大統領選で、ニクソンに10万ドルの献金をしていた。
この選挙では、ニクソンはルー・チェスラーからも1.4万ドルの献金を受けている。
リゾーツ・インターナショナルは、私に献金(実際は貸し付け)を申し出てきた。
私は提案を拒んだが、好ましくない人物として映ったようだ。
選挙は敗北に終わった。
(2016年11月28日に作成)