ケネディ暗殺を調べる委員会が誕生するが、CIAに妨害される

(『ケネディ暗殺』ロバート・モロー著から抜粋)

1976年に、私は『裏切り』を書こうと決心した。

CIAの工作員だった時の活動を軽い読み物にまとめたのだが、出版されるとケネディ暗殺事件を再調査したがっていた下院議員トム・ダウニングと会うことになった。

私はダウニングに協力し、彼は76年8月2日に記者会見を開いた。

その結果、アメリカ連邦議会・下院は『ケネディ暗殺事件の再調査』をする指令を下した。

暗殺に関する「下院特別委員会(HSCA)」は、陰謀の存在こそ立証したが、それに絡んだメンバーを特定できなかった。

またしても、CIAが手を回したのである。

1976年秋に、HSCAは地方検事のリチャード・スプレイグを主席顧問にした。

スプレイグは、調査官兼弁護士として4名を雇い、主任弁護士にボブ・タネンバームを指名した。

スプレイグはCIAとFBIも調査の対象にし、ニューオーリンズのジム・ギャリソンとも連絡を取った。

スプレイグらは、ケネディ大統領は複数の場所から狙撃されたと結論し、フロリダの調査を始めてノー・ネーム・キーの一団に目をつけた。

ノー・ネーム・キーの運営をしていたCIA関係者を調査して、ジェリー・パトリック・ヘミング、ローレン・ホール、ローレンス・ハワード、ローランド・マスフェラー、カルロス・プリオ・ソカラスなどが摘発された。

ライフ誌の編集長ディック・ビリングズの写真コレクションには、ジム・ギャリソンの調査で浮上した人々だけでなく、ノー・ネーム・キーの人物群も、CIAの上級工作員と共に写っていた。

災いが降ってわいたのは、その後だった。

ダウニング議員が再選に立候補せず、引退してしまったのである。

HSCAの委員長は、ダウニングからヘンリー・ゴンザレスに替わった。

その後、CIAシンパの下院議員やマスコミから叩かれたゴンザレスとスプレイグは、辞任してしまった。

1973年3月までに、ルイス・ストークスがHSCAの委員長となった。

スプレイグの後任は法律学者のロバート・ブレイキーになったが、彼はタネンバウムらを辞任させて、ジョージ・ブッシュのアドバイスに従った。

ジョージ・ブッシュは、CIAの利益だけを代表する人物だった。

1972年に、(CIA幹部の)ジェームズ・アングルトンは死の直前に、私に「ニクソン大統領とジェラルド・フォード副大統領が、とある協定を結んだ」と教えてくれた。

その協定とは、『ニクソンの辞任後に、フォードが2つの行動をするなら、ニクソンは彼を後任の大統領にする』というものだ。

1つは「ニクソンの恩赦」、もう1つは「ニクソンがCIAおよび反カストロ勢力の作戦に関わっていたことを隠蔽すること」。

この協定を尊重し、フォードはCIAによく通じたジョージ・ブッシュを要職に起用した。

(※ジョージ・ブッシュは政治家になる前は、表向きは企業家だったが、裏でCIAのために働いていた)

ロバート・ブレイキーは、「情報を非公開にする協定」を制定し、暗殺調査委員会(HSCA)の職員や調査員に署名を求めた。

これに署名するのを雇用条件としたが、集めた情報を明かす事を永遠に禁じる内容だった。

CIAは、委員会をブレイキーを通じて支配した。

そしてCIAがケネディ暗殺に絡んでいる事を示す情報は、委員会のメンバーに知らせなかった。

今日にいたるまで、HSCAに入りケネディ暗殺を調査したメンバーは、いかなる人物との議論も拒んでいる。

もちろん彼らは、証人が委員会で証言する前に生じた、数多くの暗殺を百も承知している。

例えば、FBI副長官のウィリアム・サリバン、オズワルドとFBIとの連絡役だったといわれるFBI捜査官のリージス・ケネディ。
ダラスにおけるオズワルドとの連絡役だったジョージ・デ・モーレンシルツ、マフィアのボスの1人だったジョン・ロゼリ。

マイアミで殺されたローランド・マスフェラーとデル・バレ。

マイアミの自宅で自殺したと見なされているカルロス・プリオ・ソカラス。

1990年に私は、イースト・サンド・ウィークエンド紙から、ケネディ暗殺をテーマに執筆してほしいと依頼された。

8月16日に「CIAはケネディを殺害したか?」というタイトルで発表されたが、数日のうちにCIAの見張りが私に付いた。

そこで10月18日に、「CIAが見張っている」と題した続編を掲載した。

少しすると、ガス・ラッソから電話があった。

ラッソはJFK暗殺の熱心な研究者で、PBSテレビでJFK暗殺の取材シリーズを担当していた。

JFK暗殺でCIAの手先として働いたと、私が考えていた元空軍大佐を、ラッソは取材していた。

この元空軍大佐は、91年4月に急死し、遺体は火葬され検死は行われなかった。

私とラッソは愕然とし、私はイースト・サンド・ウィークエンド紙に伝えた。

同紙は4月25日に「ケネディ暗殺事件のもみ消し」という記事を載せた。

当時、オリバー・ストーンは『JFK』というタイトルの映画に着手していた。
それが発表されると、一大センセーションが巻き起こった。

1991年12月に公開されると、国中で新たな声がわき上がり、ケネディ暗殺についてさまざまな説が発表された。

本書『ケネディ暗殺』は(1992年に刊行されたが)、国民が真実を知る権利を行使した結果でもある。

(完)

(2016年11月29~30日に作成)


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