(『大統領の検屍官』シリル・ウェクト著から抜粋)
1965年にアメリカ政府は、ケネディ暗殺の物的証拠のすべてを、ジャクリーン未亡人のものと決定した。
66年10月にジャクリーンは、「国立公文書館に検屍資料を寄贈する」と発表した。
彼女は1つ条件を出した。
それは、「ケネディ大統領の子供達が死ぬまで、一般人には検屍資料の閲覧を許さない」だった。
ただし、『専門家が歴史的目的のためならば、5年後から調査を許される』ことになっていた。
1968年8月に、ラムジー・クラーク司法長官らは、暗殺の資料を再検討した。
ウォーレン委員会の報告と大差なかったが、1つだけ興味深い調査結果を出した。
それは、『ケネディの頭部に命中した弾丸の位置は、ウォーレン委員会の報告した頭部下方ではなく、それよりも4インチ上だった』だ。
この結果は、X線写真に基づいたものだった。
68年秋に、私に調査できるチャンスが転がり込んできた。
ニューオーリンズの地方検事であるジム・ギャリソンから、電話がかかってきたのだ。
ギャリソンはケネディ暗殺事件を調査しており、検屍証拠について証言できる検屍官を探していた。
69年1月17日に、私は証人席に立ち、「どんな殺人事件の調査でも、検屍報告書が必要で、それは公式記録として残される」と説いた。
ハリク判事は同意してくれて、私が物的証拠の再調査をできるように命令を出した。
しかし、連邦検事たちは反対をし、ギャリソンは何年にもわたって上訴をくり返す事になる。
ギャリソンは徐々に、行く手に連邦政府が立ちふさがっているのに気付いた。
彼から聞いた話だが、「調査を断念すれば、連邦判事の職を与える」と、もちかけられた事があるそうだ。
彼は事務所に盗聴マイクを仕掛けられ、ニュース・メディアからは売名家と叩かれた。
彼が亡くなる1年前に、オリヴァー・ストーンが『JFK』というタイトルで彼の努力を映画化した。
1971年の夏になると、私は(ジャクリーンの指定した)5年間の留保期間が10月29日に終わるのを意識し始めた。
私は、ケネディ政権で司法副長官を務めたパーク・マーシャルに連絡を取った。
マーシャルは、ケネディ家と国立公文書館の取り決めの執行人だった。
「物証の再調査をさせてほしい」と頼んだが、彼は無視し続けた。
11月下旬に、ニューヨーク・タイムズのフレッド・グレアムから電話が来た。
彼が仲介してくれた結果、72年8月24~25日に、ついに国立公文書館で物証の1つ1つを調査できた。
私は、ケネディの着ていた上着を手に取り、背中の弾痕を調べた。
穴は、襟から5.75インチほど下にあった。
暗殺当日に検屍をした医師たちも、首のつけねから5.75インチ下に射創がある、背中の縮図を描いている。
だが、6ヵ月後にウォーレン委員会が射創の位置を4インチ上にずらすと、医師たちは自分たちは間違っていたと認めてしまった。
2発目に発射されたという「魔法の銃弾」も、調べた。
ほぼ原形に近い状態で、キズはほとんど付いていなかった。
ウォーレン委員会は、この銃弾について、「2つの人体を貫通し、2つの骨を砕き、4ヵ所に破片を残している」とした。
だが、弾丸は元の重量からわずか1.5%しか失っていない。
発射される前には161グレインだった弾丸は、私が調べたら158.6グレインだった。
コナリーの右手首から2グレインの破片が摘出されており、別の破片が今もコナリーの脚の中に残っている。
その点だけから云っても、間違った説だと判る!
証拠の中には、政府が行った射撃テストも含まれていた。
カルカーノ・ライフルと同種の弾丸を使って、解剖用の遺体に撃ち込んだのだ。
撃ち込まれた弾丸は、全てがかなり変形していた。
そのテストでも、「魔法の銃弾説」の間違いが証明されていたのだ。
X線写真と検屍写真をながめた時に、後頭部の髪の生え際より少し上に、「ぶよぶよした小さな組織弁があること」に気付いた。
驚くべきことに、それまでこの組織弁について報告した者は居なかった。
頭皮の写真を見ると、その組織弁は、どう見ても銃弾の出口だった。
となると、前方に第二の狙撃者がいた事になる。
私が「脳を見たい」と頼むと、公文書館員は「脳はここには無い、どこにあるかは知りません」と答えた。
何という驚き。政府は脳を紛失していたのだ。
物証リストをさらに調べると、他にも紛失しているものが見つかった。
顕微鏡用の組織スライド、ケネディの胸の写真も、無くなっていた。
1968年のクラーク調査団など、多くの人が調べたはずなのに、誰もそれを公表していなかった。
私に言わせれば、いかに政府のプレッシャーに晒されていたかの証左である。
頭皮の写真を眺めると、他にも異常があった。
パークランド記念病院の医師たちが、大きな穴があると言っていた場所に(頭頂部の後方に)、髪の毛があるのだ。
妙な事に、そこにある髪の毛は1インチ足らずの短いものだった。
普通は、襟足に生える長さである。
これでは、『遺体に手が加えられた』との疑念が生じるのも無理はない。
国立公文書館を後にすると、ニューヨーク・タイムズのグレアム記者が待ち構えていた。
物証を見られたのは彼のおかげなので、私は2~3時間にわたって見てきたものを説明した。
2日後に、ニューヨーク・タイムズを買うと、第一面に『ケネディの脳の運命は謎だらけ』という見出しが躍っているではないか。
長文の記事には、私が説明した事が、こと細かに書かれていた。
私はその後に何年にも渡って、司法省、FBI、ベセスダ海軍病院などに、「ケネディの脳など、紛失したものの在処を探してほしい」と頼んだ。
だが各機関は、「その件についてはコメントできない」と繰り返すばかりだった。
(2014年12月5~6日に作成)