ジム・ギャリスンの調査と、それを阻むための数々の陰謀①

(『決定版二〇三九年の真実』落合信彦著から抜粋)

1967年2月に、全米をわき上がらせるニュースが起きた。

ニューオーリンズの地方検事ジム・ギャリスンが、ケネディ暗殺の犯人(複数)を割り出し、「逮捕は時間の問題である」と発表したのだ。 

この声明の4日後に、第一の容疑者とされていたデビッド・フェリーが自宅で死体となって発見された。

検死結果は脳内出血とされたが、タイプで打たれた遺書が2通残されていた。

脳内出血で急死した者が、どうやって2通もの遺書をタイプ出来たのか不思議である。

フェリーの死を知ってギャリスンは、部下をフロリダに急行させた。

フェリーと親しいデル・バレから事情聴取するためだ。

デル・バレはかつてキューバで国会議員をしていて、アメリカに亡命したキューバ人の中でも有数の金持ちで、反カストロ組織をバックアップしていた。

デル・バレを見つけると、駐車場で死体となっていた。

至近距離から心臓をぶち抜かれ、頭から首まで斧で真っ二つに割られていた。

フェリーが死んでから12時間後だった。

デビッド・フェリーは、脱毛症で頭から足先まで1本の毛もなかった。

自作のモヘアで作ったかつらを付け、眉毛は墨で描いていた。

頭脳は明晰で、数か国語を操り、医学の知識はプロ並みだったといわれる。

イースタン航空のパイロットとして働いていたが、ホモ行為が目にあまるためクビになった。

ケネディが暗殺された日、フェリーの友人のジャック・マーチンは検事局に「オズワルドとフェリーは関係があり、フェリーは暗殺に関与している」と情報提供した。

その時フェリーは、ニューオーリンズからテキサスのヒューストンに車で向かっていた。

暗殺の3日後に検事局に出頭したが、「ヒューストンでアイススケートをするためにドライブした」と供述した。

アイススケートをするために560kmもの道のりをドライブするだろうか。
しかもあの夜は雷雨だった。

フェリーはヒューストンに着くと、ガルヴェストンに向かい、町のモーテルに泊まった。

そこではブレック・ウォールという男を介して、ジャック・ルービーと電話連絡を取っている。

フェリーのヒューストン行きの説明に検事局は納得せず、FBIニューオーリンズ支局に引き渡した。

だが密告したマーチンが前言を翻して取り消したため、フェリーは釈放された。

FBIはフェリーに数時間の尋問を行い、30ページの記録を残したが、公開されていない。

1967年3月に、ギャリスンはクレイ・ショーの逮捕に踏み切った。

ショーはニューオーリンズの実業家だが、オズワルドやフェリーや亡命キューバ人と組んでケネディ暗殺を行ったと見たのだ。

「ショーやフェリーはCIAのエージェントだった」とギャリスンは主張し、それを証明するためにFBIやCIAに協力を要請した。

しかし連邦政府への召喚状はすべて無視され、司法省も協力を断った。

また、州と州の間に定められた容疑者引き渡し条項も、5つの州が無視した。

CIAは、ニセの証人をギャリスンの許に送り、ガセネタをつかませて調査を混乱させた。

調査中は、大手マスコミはギャリスン非難の急先鋒に立った。
(地方のジャーナリズムは終始ギャリスンの側に立った)

ルック誌は彼を精神異常と報じ、信用を落とす役割を果たした。

大手マスコミの無責任さは、ウォレン委員会の報告書が出版された時にも表れていた。

ニューヨークタイムズ紙の記者は、報告書を大絶賛した。

2年以上かかった裁判は、ギャリスンの敗北に終わった。

ギャリスンはこう語った。

「我々が学んだことは、アメリカの法廷で諜報に関する事件を争うのは
 不可能ということだ。

 陪審員を構成する一般人の諜報活動についての知識は、
 無いに等しい。」

裁判の後、ギャリスンは『石の遺跡』という本を出した。

その中では「CIAの国内諜報活動がいかに破壊的で、一般社会の奥深くまで浸食しているか」を述べている。

しかし当時は、CIAの国内諜報活動の存在を信じる者はいなかった。

(建前上は、国内諜報活動はFBI、国外はCIAが担当することに
 なっている。
 当時の国民はそれを信じていた。)

ウォーターゲート事件が起きると、CIAがずっと以前から国内で諜報活動をしていた事が判明した。

そして1975年に元CIA幹部のヴィクター・マーチェティの証言で、ショーとフェリーがCIAの契約工作員だった事が明らかにされた。

マーチェティによると、ギャリスンの裁判中にリチャード・ヘルムズCIA長官は、毎朝のように「ショーを助け出せ」と命じていた。

(2017年4月5日に作成)


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