ジム・ギャリスンの調査と、それを阻むための数々の陰謀②

(『決定版二〇三九年の真実』落合信彦著から抜粋)

1977年に渡米した際、私はジム・ギャリスンに面会を申し込んだ。

ニューオーリンズの彼の所属する法律事務所を訪れた。 

彼のオフィスは8畳ほどで、ごく粗末なものだった。

私が冒頭に会見してくれた礼を言うと、彼は机の上の手紙の束を指して言った。

「講演依頼の手紙だが、もう行かないことにしている。

 いくら声を大に訴えても、人々は分かってくれない。
 あなたにも実のところ会いたくなかった。」

苦々しさに満ちた話し方だった。

私はこう話した。

「真実は明るみに出さなければならない。
 その意味で、あなたは歴史に1つの貢献をしたではないか。

 あなたの挑戦によって、政府のやる事は全て正しいと思っていた
 一般市民にショックが生じた。

 それをしたからこそ、ウォーターゲート事件でニクソン大統領が
 追い落とされ、大企業も次々と上院委員会で突き上げられたのだ。

 あなたの功績はそこいらの政治家以上のものがあった。」

ギャリスンがリラックスしてきたので本題に入った。

以下は彼とのやり取りの一部である。

Q 1967年に裁判を起こしたきっかけは?

A

66年10月に、上院議員のラッセル・ロングと食事したが、彼は「ウォレン委員会の結論には多くの疑問点がある」と言った。

私はいささか驚いた。なぜならあの件はすべて委員会が調査ずみだと思っていたからだ。

さっそく委員会報告書を読んだが、ケネディが1人の犯人に殺されたというのは不可能な事と、オズワルドは一発も撃っていない可能性が出てきた。

Q 連邦政府が、この事件の調査に否定的だと初めて感じたのはいつ?

A

67年3月にクレイ・ショーを逮捕したが、驚いたのは政府が被告の応援をした事だ。

クラーク司法長官は「被告はすでにFBIによってチェックされていて、白である」と言ったし、ジョンソン大統領は「ウォレン委員会の調査を再開する必要はない」と言明した。

アレン・ダレス元CIA長官などウォレン委員会のメンバーに召喚状を出したが、1人として応じなかった。

Q 連邦政府から具体的な妨害はあったか?

A

クラーク司法長官は、私を告訴すると言った。

それにCIAのコントロール下にある大手週刊誌は、私とマフィアを関連づけようとやっきになった。

(インタビュー全体を通してギャリスンはマスメディアへの
 不信感をあらわにし、ケネディ暗殺について出された本の
 大部分はCIAのスポンサーシップの下で書かれたと述べた)

国税局の職員がやってきて、私の脱税を調査中だと脅してきた。

ロスアンジェルスで受けた恥辱は、ヒトラーのゲシュタポが使った手と全く変わらなかった。「ここはアメリカか?」と思ったほどだ。

1970年の地方検事の選挙で、私は「ケネディ暗殺の調査を徹底的にやる」と公約し、再選をはたした。

その後、連邦政府の妨害はいちだんと激しくなった。

71年7月に、連邦司法省から告訴された。

朝の5時に保安官とFBIが自宅に来て、妻と子供の目の前で私に手錠をかけた。

現役の地方検事に対しその様なことが出来る連邦政府の力を、まざまざと感じさせられた。

容疑は、ピンボール業者から賄賂を受け取ったというもので、もちろん無罪となった。

だが、法廷に引きずり出されて仕事をする時間は限られてしまい、無罪となってもイメージダウンはまぬがれなかった。

72年には、彼らは今度は脱税容疑で告訴してきた。

ピンボール業者から受け取った賄賂を申告しなかったから、というのが理由だった。

賄賂を受け取ってなくて無罪となったのに、存在しない賄賂に脱税容疑をかけてきたのだからめちゃくちゃと言う他ない。

度重なる妨害のせいで、73年の選挙では敗れてしまった。

ギャリスンは家庭をめちゃくちゃに破壊され(彼は離婚している)、年棒が1万ドルに満たない弁護士業を強いられたのである。

取材を終えて私が事務所から出ていこうとすると、ギャリスンは机上の手紙を指して言った。

「これらの講演依頼を受けることにするよ」、その顔には初めて笑いが浮かんでいた。

(2017年4月5日に作成)


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