(『決定版二〇三九年の真実』落合信彦著から抜粋)
ニューオーリンズは、ジャズと歓楽街で知られているが、CIAの対カリブ海地域の諜報基地でもある。
1961年4月のキューバ侵攻(ピッグズ湾作戦)までは、対カリブ海の本拠地はフロリダ州マイアミに置かれていた。
だが亡命キューバ人が増えてマイアミに集まると、カストロ配下のスパイが潜り込んできた。
そこでCIAはルイジアナ州ニューオーリンズに本拠地を移したのだ。
オズワルドは、ニューオーリンズ生まれで、17歳の時に海兵隊に入った。
そしてCIAにスカウトされて、日本の厚木基地で情報部員として訓練をうけた。
レーダー部隊に配置され、ロシア語を叩き込まれた。
公開されたウォレン委員会の極秘書簡によると、当時の厚木にはCIAのU-2偵察機が置かれていた。
1959年5月にジョン・フォスター・ダレス国務長官が亡くなると、世界に雪解けのムードが出た。
ダレスは攻撃的な軍事政策を唱えていて、軍産複合体の代弁者だった。
この年の9月にはソ連のフルシチョフが訪米して、米ソの蜜月ムードがただよった。
このムードをぶち壊すために、オズワルドは指示をうけてソ連に渡った。
そして「ソ連に亡命したい、重要なレーダー情報を提供する用意がある」と告げた。
オズワルド亡命の8か月後(60年5月1日)に、CIAのU-2偵察機はソ連のミサイルで撃墜された。
これは米ソがパリで行う首脳会談の15日前だった。
U-2偵察機に乗っていたのはゲーリー・パワーズで、CIAに雇われたパイロットだった。
パワーズは自著『上空作戦』の中で、U-2撃墜とオズワルドが持っていたレーダー情報には繋がりがあると語っている。
CIAがオズワルドを介して、レーダー情報をソ連に伝えたのはなぜだろうか。
その頃すでに、ロッキード社はU-2よりも優秀なSR71の開発に成功していた。
全ヴェトナムを8分間で撮影し得るこの新型機は、このあと主力機となった。
U-2撃墜によって、米軍は冷戦状態を復活させ、ロッキード社は新機種を売るのに成功した。
この事件後、パリの首脳会談は決裂し、再び冷戦状態になった。
この後、オズワルドはミンスクに送られ、電気工場で働くことになった。
ミンスクに送られて15ヵ月目にダンスパーティで、マリナ・プルサコーバという女性に出会う。
マリナは1941年に私生児として生まれ、母親が亡くなった後は伯父のイリヤ・プルサコーバに育てられた。
イリヤは共産党員で、MVD(ソ連内務省)の大佐だった。
オズワルドの亡命中、モスクワの米国大使館に居て連絡係をしたのは、リチャード・スナイダーだ。
彼は以前は国務省の情報部にいた。
オズワルドと結婚したマリナが、米国大使館でヴィザを申請した時、何の支障もなかった。
オズワルド夫妻がアメリカに行く(帰国する)際は、アメリカ国務省は費用の前貸しまでしている。
1962年6月13日に、オズワルド夫妻はアメリカに入国した。
普通ならば、FBIやCIAが待ち構えていても不思議はない。
オズワルドはソ連に亡命し、軍事情報を敵に提供した人物だからだ。
ところがノーチェックだった。
なぜなら任務を実行して帰国したCIA要員だからだ。
アメリカに戻ったオズワルドは、ダラスでチャイルズ・ストーバルという会社に籍を置いた。
この会社は国防省の仕事をしていて、海底や海岸線の地図を作成していた。
彼がもし本当の共産主義者だったら、国防省関係の会社で働けるわけがない。
1962年8月に、彼は「しばらくFBIの下で情報提供者として働くように」と要請された。
オズワルドに与えられたFBIナンバーはS-179で、報酬は200ドル(月額)だった。
当時の200ドルは少ない額ではない。
ダラスにおいてはジョージ・デ・モーレンシルツが、オズワルドの保護者的な役割を果たした。
モーレンシルツは石油業界の実力者で、国際的なビジネスマンだ。
コーポレーション・エージェンシーというCIAのダミー組織に勤めて、石油発掘コンサルタントとして諸外国に派遣された。
ユーゴに行った時は、スパイ容疑で国外追放されている。
1960年には8ヵ月かけて中南米を徒歩旅行し、撮った8ミリはアメリカ政府に提出している。
1963年4月に、オズワルドに新しい任務が与えられた。
彼の持つ左翼イメージが役に立つ仕事だった。
オズワルドはニューオーリンズに向かい、ライリー社というコーヒー製造会社で働き始めた。
この会社の持ち主はウィリアム・ライリーで、彼は「自由キューバ委員会」という右翼団体を支援していた。
この団体は、反カストロのグループで、CIAと強く結ばれていた。
オズワルドは2ヵ月で退社するが、その後ライリー社の人々は続々とNASAに引き抜かれている。
ライリー社を辞めて20日後の63年8月9日に、オズワルドはカストロ支持のビラをニューオーリンズのど真ん中で撒いた。
ニューオーリンズはアメリカで最も保守的な南部の町であり、驚いた新聞社やテレビが駆けつけ、彼の名前と顔は町中に広まった。
この時に彼は、3人の反カストロ派のキューバ人に襲われている。
そしてその3人と共に警察に連行された。
罰金を払ったのは襲ったキューバ人ではなく、被害者のオズワルドだった。
警察署でオズワルドは「FBIと話したい」と申し出ている。
FBIとオズワルドの会話記録は、ケネディ暗殺直後に焼却されてしまった。
オズワルドが配っていたビラに書かれたFPCC(キューバに関する公正をうながす委員会)の住所は、544キャンプ・ストリートのビルだった。
このビルにはガイ・バニスターの事務所があり、反カストロの秘密工作を行っていた。
ガイ・バニスターは、元FBIのシカゴ支局長である。
オズワルドはこの事務所を頻繁に訪れて、デビッド・フェリーと会っていた。
このビルには、キューバ革命委員会の事務所もあった。
この団体は反カストロの活動をするもので、CIAがスポンサーだった。
CIAから派遣されていたのは、後にウォーターゲート事件で主犯格となるE・ハワード・ハントとバーナード・バーカーだ。
ハントとバニスターは、1954年にCIAがグアテマラのアルベンス政権を倒した時に一緒に働いていた。
このビルには、セルジオ・アーカチャ・スミスの事務所もあった。
彼はキューバ革命委員会のニューオーリンズ代表で、バチスタ政権時代のキューバでは外交官をしていた。
この男は、ゴードン・ノーヴェルやデイブ・フェリーと一緒に、ユーマの兵器庫から武器を盗んでいる。
武器を盗まれたのはフランスのシュランバーガー社だが、社長のジャン・デ・ミニルは第二次大戦中はフランスの情報部におり、ジョージ・デ・モーレンシルツと特別の仲だった。
ガイ・バニスターは1964年の夏に病死したが、FBIはすぐに彼の事務所に行きファイルを持ち去った。
FBIが見落としたファイルの索引表を、後にジム・ギャリスンの部下が回収している。
その索引表を見ると、「反ソの地下組織」「爆撃戦力」「ミサイル基地の解体法」などがある。
バニスターのクライアントは、アメリカ政府(内の過激派)だった。
バニスターらの事務所が入った544キャンプ・ストリートのビルの区画は、その後にアメリカ政府に買い上げられ、ヘイル・ボッグス・ビルディングが建てられた。
ヘイル・ボッグスは、ウォレン委員会のメンバーだった人物だ。
(2017年4月6日、18年8月20日に作成)