ガイ・バニスターについて調べる

(『JFK ケネディ暗殺犯を追え』ジム・ギャリソン著から抜粋)

私はケネディ暗殺事件の調査として、暗殺事件直後にガイ・バニスターに拳銃で殴られたジャック・マーチンに会った。

マーチンはアルコール中毒だが、頭の回転が速く観察力の鋭い私立探偵だ。

私は地方検事補だった頃から、彼と多少の接触があった。

ケネディ暗殺のあった日、ニューオーリンズにあるガイ・バニスターの事務所では、暴力事件が起きていた。

バニスターはFBIのシカゴ支局長を務めた人物で、ニューオーリンズ警察の副署長もしていた。

彼が警察署に勤務していた時はときおり昼食を共にし、私はバニスターをかなり知っていて、お互いにFBIに居たことがあったので、その頃の派手な話を披露し合ったものだ。

彼は厳格できわめて沈着な男だ。

しかしケネディが暗殺された日の午後は、バーで浴びるほど酒を飲み、ジャック・マーチンと共に事務所に戻った。

マーチンは、バニスターの事務所に出入りする取巻きの探偵だ。

マーチンが「夏の間に事務所で起こったおかしな出来事を忘れてはいない」と言うと、バニスターは三五七マグナムを抜き、銃身でマーチンの頭を殴り始めたというのだ。

マーチンは血まみれで倒れ、パトカーで病院に運ばれた。

「ガイ・バニスターがマグナムであんたの頭を殴った日のことだが、憶えているかい?」と、私はマーチンに訊いた。

「忘れられるもんじゃありませんよ。
 殺されそうになったんですからね。」

「警察の報告書によると、電話の請求書をめぐるいざこざで殴ったことになってるが、本当かい?」

「いや、それだけじゃなかった。

奴はひどく機嫌が悪く、だしぬけに私が奴の個人的なファイルを見ただろうと言いだしたんだ。

私はしてないのでかっとなり、そんな口のきき方をしない方がいいぞと言ってやった。

夏の間に事務所に来た連中を忘れたわけじゃない、とも言ってやった。

その時だよ、奴が私を殴ったのは。」

「で、夏の間に事務所に来た連中というのは?」

「いっぱい居たね。キューバ人が大勢やってきた。デイブ・フェリーもいた。」

「フェリーは、たびたび顔を見せたのかい?」

「度々なんてもんじゃありませんよ。
あそこに住んでいた様なもんです。」

私は「リー・オズワルドもだね?」と尋ねた。

彼は唾を飲み込み、頷いた。

「ええ、彼も居ました」

私は、さらにマーチンに質問していった。
「ガイ・バニスターは何をしていたんだい?」

「その連中(デイブ・フェリーやオズワルドたち)を動かしていたんですよ。」

「私立探偵の仕事のほうは?」

「依頼はあまりなかった。
たまにあった時は私が担当しました。私はそのために居たわけだから。」

「バニスターの事務所では何が行われていたんだい?」

こう尋ねると、マーチンは「それには答えられない。話したら連邦政府が追ってくるんだ」と言い、立ち上がって帰ってしまった。

マーチンと話してから1週間後の朝、検事局に着くと補佐のフランク・クラインが新聞の切り抜きを持ってきた。

その記事は1963年8月1日付のタイムズ・ピカユーン紙の第1面で、
「セント・タマニー郡でFBI捜査官らはダイナマイトなどを押収した。アメリカと友好状態にある国に対して軍事行動をしようとする動きの捜査に関連して行われた」とあった。

大がかりな捜査が行われたにしては、ほんの概略を述べているだけだった。

クラインは「それだけでは全体像がつかめないでしょうから」と言い、8月2日付の朝刊の第1面の記事も出した。

「ポンチャートレーン湖の北岸で大量の爆薬などが押収されたが、それらが貯蔵されていた小屋の所有者の妻は、キューバ人亡命者に貸していたと語った。ホセ・ファレスというキューバ人に貸したという。」

クラインは言った。

「3年前にデイブ・フェリーのアパートを手入れした時、陸軍の備品やライフルがごろごろしていたでしょう。」

私は、「君は、この爆弾を隠し持っていた亡命キューバ人と、バニスターの仕事が関係あると考えているのだね」と応じた。

この記事は、後に重大な手掛かりとなる。

私たちは幸運にも、バニスターの未亡人から話を聞けた。

彼女は、ある事を思い出した。
1964年にバニスターが死亡した後、事務所を整理していたら奇妙なビラの山が見つかった。

そのビラには、「キューバから手を引け」とか「キューバに公正な活動を」を書かれていた。

オズワルドが配ったビラの残りだ。

彼女の話では、バニスターの死後1~2時間で、連邦政府の職員がバニスターの事務所にやってきて、キャビネットごと書類を運び出してしまったという。

ずっと遅れて州警察もやってきて、ファイルのインデックス・カードを持ち去ったという。

州警察に行ってみたら、インデックス・カードのいくつかは残されていた。

それを見ると、連邦政府が押収したファイルの性格を知ることができた。

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これがバニスターの私立事務所の実体だった。

私は再び、ジャック・マーチンに話をきくことにした。

まず1963年8月1日の新聞記事を見せると、「そうですよ、バニスターはこれに関係していました」と教えてくれた。

彼は記事を読み終えると、眉をひそめた。

「どうしたんだね」と訊くと、「大事なことが書かれていませんね。逮捕されたキューバ人達のことが何ひとつ書かれていない」と言う。

彼の話では、実際にはFBIは爆薬を押収しただけではなく、近くの訓練キャンプを急襲しキューバ人とアメリカ人を逮捕したという。

後にわかったが、このグループはCIAを後楯として、キューバ侵攻に備えていたのである。

FBIの捜査(急襲)は、ケネディ大統領が中立法違反をくり返すCIAにストップをかけようとして行ったものだった。

マーチンの説明によると、バニスターの組織はダラス~ニューオーリンズ~マイアミを走る補給路の一部をなすものだった。

カストロ打倒(キューバ侵攻作戦)のために、弾薬は広範囲にわたって辺鄙な土地に保管されていた。

バニスターの事務所に置かれるものは、そのほんの一部にすぎなかった。

元CIAのゴードン・ノヴェルから後に聞いたのだが、バニスターの事務所から送り出された数人の男が、ある夜ルイジアナ州の最南部にあるホーマの基地に向かったのも、弾薬を入手するためだったという。

彼らはシュランベルジュ社の保管庫に入り、地雷や手榴弾を運び出した。

シュランベルジュ社は、世界の石油会社を顧客として、爆薬を使って地下資源を調べていた。

この会社は、フランスの秘密軍事組織OASに爆弾を供給していた。

OASは、数度にわたってドゴール大統領の暗殺を企てており、それをCIAはシュランベルジュ社を通して支援していたのだ。

バニスターらが行った作戦は、OASの解散を受けて、CIAが爆弾の回収にあたったものである。

キューバから亡命してきた者には、ポンチャートレーン湖の北のキャンプでゲリラ訓練を受ける者もいた。

フロリダでもCIAは同種の訓練キャンプを運営しており、フロリダで訓練を終えた者が西部に戻る途中でバニスターの事務所に宿泊していた。

私たちが最も気になったのは、『ガイ・バニスターの作戦が、通りの向かいにある海軍情報部やシークレット・サービスの事務所からの指令で行われていたらしい』という事だ。

バニスターの事務所に出入りする者たちは、しばしば戦闘服で、しょっちゅう武器や弾薬を出し入れしている。

海軍情報部らは、いやというほどそれを見ていたに違いない。

FBIにしても、ケネディ大統領の命令で爆薬の押収をしたが、実際にはバニスターの任務を支持していたように見える。

この時点ではまだ気付いていなかったが、どのような事をしてでも冷戦やヴェトナム戦争の継続を望む勢力がいる事を示す最初の兆候に、私たちは遭遇していたのだ。

(2018年8月13日に作成)


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