クレイ・ショーを調べる

(『JFK ケネディ暗殺犯を追え』ジム・ギャリソン著から抜粋)

ウォーレン委員会の資料を読んでみて、私は弁護士のディーン・アンドルーズから話をきくことにした。

アンドルーズはロー・スクールで一緒に学んだ時からの知り合いだが、FBIから聴取を受けた時にこう証言していた。

「オズワルドがニューオーリンズに住んでいた1963年の夏に、クレイ・バートランドから電話がかかってきて、(オズワルドの妻の)マリナが公民権のことで問題をかかえているのでオズワルドに会ってやってほしいと依頼された。

オズワルドとは事務所で何度か会った。

さらにケネディ暗殺事件の翌日、バートランドからオズワルドの弁護士を務めるようにと依頼の電話があった。」

ディーン・・アンドルーズに会い、「クレイ・バートランドは何者なのか」と尋ねたが、「それに答えたら弁護士なんてしていられなくなる。政府を敵に回す気か?」と言って、逃げ去ってしまった。

私たちの調査チームは、クレイ・バートランドを捜すことにした。

すると数週間後に、『クレイ・バートランドは、クレイ・ショーの別名である』と判明した。

ショーは、バーで飲む時にこの変名を使っていた。

街のバーに出入りしている事がわかると、名士としてのイメージに傷がつくと考えたらしい。

クレイ・ショーは、インターナショナル・トレード・マート社の理事であり、ニューオーリンズの名士だ。

後になって、彼がCIAの工作員として国際的に活動していたのを知ることになる。

ショーはCIAの下で、イタリアのローマでファシズム復活を画策していた。

この工作はイタリアの新聞にすっぱ抜かれたが、それらの記事によれば、CIAは1960年代初めにあるプロジェクトを始めた。

そのための組織であるサントロ・モンディアール・コメルシアール(世界貿易センター)は、モントリオールで設立され、61年にローマに移された。

この組織の理事にクレイ・ショーは名を連ねていたが、他にもグティエレス・ディ・スパダフォロ(サヴォイ家の1人で、ムッソリーニ政権下で農務次官を務めた)が理事だった。

スパダフォロは、ナチス政権で大蔵大臣をしたヤンマール・シャハトと縁戚関係にある。

サントロ・モンディアール・コメルシアールの理事には、国を追放されたハンガリーの元首相フェレンク・ナジもいた。

ナジはパーミンデックスの総裁をしていたが、これはサントロから派生した組織で、ファシスト運動を支援していた。
クレイ・ショーはパーミンデックスでも理事を務めている。

サントロの主要株主の1人は、L・M・ブルームフィールドという少佐だが、彼はアメリカ人で元OSS(CIAの前身)職員だ。

1962年になってイタリア政府とスイス政府は、サントロとパーミンデックスを破壊情報活動のかどで自国から追放した。

両団体はヨハネスブルクに本部を移した。

フェレンク・ナジはCIAと深い関係にあったが、その後アメリカに移住した。

イタリアの新聞は、「パーミンデックスは、フランスの秘密軍事組織であるOASに資金提供していた」と報道している。

これを知ると、ガイ・バニスターやデイブ・フェリーがCIAからOASに提供された武器・弾薬を回収する作戦に参加したのも納得できる。

(2018年8月19日&22日に作成)


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