(『JFK ケネディ暗殺犯を追え』ジム・ギャリソン著から抜粋)
ケネディ暗殺事件の調査をする中で、私は新聞記事も調べた。
1963年11月22日(暗殺当日)の『ダラス・モーニングニュース』の第1面では、大統領パレードのルートを示す地図が大きく載っていた。
それを見ると、ルートはメインストリートを直進して、ディーリー・プラザの中央を通ることになっていた。
実際のパレードでは、右折してヒューストン・ストリートに入り、それからエルム・ストリートに入っている。
そのために大統領の車は時速10マイルくらいにスピードを落とすことになった。
最後の土壇場になってルートが変更され、教科書倉庫ビルの前を通ることになったのである。
ウォーレン委員会でもこの新聞は証拠として採用されたが、驚くことにパレード・ルートの地図は切り取られて灰色一色になっている。
委員会は、証拠を意図的に隠滅したのだ。
さらに調べてみると、当時のダラス市長はアール・キャベルという人物だが、CIAの元副長官であるチャールズ・キャベルの兄弟だった。
チャールズ・キャベルは、ピッグズ湾侵攻作戦の責任者で、同作戦が失敗におわった後にケネディ大統領からCIA副長官を解任されていた。
それ以来、ケネディに対するチャールズの憎悪はワシントンでは知らない者はなかった。
(2018年8月22日に作成)