(『JFK ケネディ暗殺犯を追え』ジム・ギャリソン著から抜粋)
クレイ・ショーの裁判後に、奇怪な死に方をした男が何人かいる。
オズワルドの友人で面倒を見ていたジョージ・ド・モーレンシルトは、連邦議会・下院の暗殺調査委員会で話す約束をした数時間後に、死体で発見された。
保安官のロジャー・クレイグは、乗っていた自動車が爆破され一命をとりとめたが、その後に自宅で射殺死体となって発見された。
クレイ・ショーは1974年8月14日に死亡したが、その状況も奇妙である。
近所の人が、ショーが自宅から担架で数人の男によって運び出されるのを目撃した。
異様に思い通報したところ、ショーの生地に埋葬された事が分かった。
あまりに早い埋葬を不審に思った検死官が、遺体を掘り出す許可を裁判所に請求した。
しかしマスコミが死者への冒瀆だと騒ぎ、遺体が掘り出されることはなかった。
ケネディ暗殺事件については進展があり、ケネディの遺体からもう1つ銃弾が発見されていた事が分かったし、脳がどこかに持ち去られたことも判明した。
それにクレイ・ショーがCIAのエージェントだった事を、ヴィクター・マーチェッティとリチャード・ヘルムズが認めた。
1978~79年に下院の暗殺調査委員会は、「ケネディはおそらく陰謀の結果、暗殺された」と結論した。
そして司法省に捜査を要請した。しかしその後に何の動きもない。
ケネディ大統領の暗殺後も、キング牧師やマルコムXやロバート・ケネディが暗殺され、フォード大統領やレーガン大統領への暗殺未遂事件があった。
9年間にわたったヴェトナム戦争、ウォーターゲート事件、イラン・コントラ事件もあった。
1963年11月22日にダラスで起きたことは、クーデターだったと私は信じている。
計画したのはアメリカ政府の情報コミュニティにいた狂信的な反共主義者たちだ。
それに手を貸したのは、FBI、ダラス警察、軍の同じ思想を持つ人々だった。
目的は、ケネディ大統領の進めるソ連やキューバとの和解を阻止することだった。
暗殺後の隠蔽工作では、シークレット・サービスはジョン・コナリー州知事の衣服をクリーニングに出し、大統領の乗っていたリムジンを洗車した。
FBIは、事前に暗殺計画の通報があった事を隠し、暗殺の目撃者たちを脅して沈黙させようとした。
ダラス警察は、テキサス教科書倉庫ビルで発見された二挺のライフルを紛失し、オズワルドの硝煙反応テストが陰性だったことを10ヵ月も隠した。
そして何十人という警官がいた警察本部の地下室で、ジャック・ルビーがオズワルドを射殺するのを誰も阻止しなかった。
ジョンソン新政権は、オズワルドの単独犯行説というおとぎ話を支持し、承認印を押してしまった。
政府の記録は改竄され、非公開となった。
私が調査を始めると、政府は捏造した事件によって私を裁判にかけてきた。
ケネディ暗殺を調査して分かったのは、動機と能力を備えていたのはCIAの秘密工作部門だという事だ。
CIAの活動の3分の2以上は、偽情報の拡散、秘密の軍事組織の養成、クーデターや殺人が占めている。
1975年にフランク・チャーチを委員長とする上院委員会は、CIAが何件もの暗殺を企て、時にはマフィアのヒットマンまで用いていた事をつきとめた。
CIAは1953年に、イランでクーデターを起こし、モサデク首相を失脚させた。
54年にはグアテマラでクーデターを起こし、アルベンス大統領を追放した。
61年のコンゴ指導者のルムンバ暗殺にも関与していた。
キューバのフィデル・カストロの暗殺作戦も何度も実行している。
こうした歴史から見て、CIAがケネディ暗殺に必要な能力を蓄積していたと考えていい。
そもそもCIAの主目的は、共産主義と見なした存在を破壊することだ。
ケネディは、大統領選の時はソ連との対決姿勢を打ち出していたが、当選後はソ連やキューバとの共存に舵をきった。
共産主義との戦争を支持していた者達にとっては、これは裏切り行為だった。
ジョンソン大統領になってからの外交政策を見れば、CIAがなぜケネディを殺そうとしたかは明白である。
ジョンソンは大統領になった直後に、駐南ベトナム大使のヘンリー・ロッジに「ベトナムを手放すつもりはない、東南アジアに中国の道はたどらせない」と語っている。
そして1964年8月に自作自演のトンキン湾事件を起こし、報復攻撃と称して北ベトナムに派兵した。
(2018年9月19&24日に作成)