ジム・ギャリソンは連邦政府から不当に訴えられる②

(『JFK ケネディ暗殺犯を追え』ジム・ギャリソン著から抜粋)

私は、ピンボール賭博の業者から金をもらって税金を払わなかったとして、1974年初めに連邦政府から脱税で起訴された。

71年に続く、2度目の連邦政府からの嫌がらせだった。

公判が始まると、検察側はピンボール経営者たちを証人として出廷させたが、1人として私と知り合いでない事が明らかになった。

検察側が最も期待していた証人は、パーシング・ジャーヴェだった。

この男は、私の軍隊時代の親友で、私が検事になると一時期は主任捜査官として働いた。

だがある事件で「750ドルで事件を却下してほしい」とジャーヴェが弁護士に頼んだのを知り、彼を解雇していた。

ジャーヴェは、隠しマイクで録ったというテープを証拠として提出したが、そのテープには私とジャーヴェの会話が収められていて、ピンボール業者との汚職を匂わす会話があった。

そのテープを聞くと、私の声が他のテープから取ったものである事が分かった。
だが陪審員たちにそんな事は分からない。

そしてジャーヴェは、「ジム・ギャリソンはピンボール経営者から15万ドルを受け取った」と証言した。

私は十分に証拠を集めていたので、くつろいだ感じで反対尋問を始めた。

まずジャーヴェにこう質問した。

「あなたは、ジム・ギャリソンは金に興味がなく、所得申告では税金を誤って納めすぎることすらありそうだと、国税庁の捜査官に語ったのではありませんか?」

「その通りです」と彼は答えた。

私は一束の書類を取り上げて、こう質問した。

「連邦政府がカナダのゼネラル・モーターズに、あなたを就職させたのは事実ですか?

年棒は2.2万ドルで、週に2~3日の出勤でよかったのは事実ですか?」

彼は「事実だ」と答えた。

ジャーヴェはゼネラル・モーターズのカナダ工場のトップになっていたが、その地位に関する資格を尋ねると「別に何の資格もない」と答えた。

次に私は、2枚の出生証明書のコピーを示した。

彼は、アメリカ政府の証人移住計画によってカナダに移住していたが、姓もメイソンに変えていて、子供についても新しい出生証明書を司法省から与えられていた。

「この出生証明書には、子供たちが生まれた州の正しい記載がなされているか」と質問したが、「そうではない」と彼は答えた。

私は陪審員たちに、司法省が出生証明書を偽造してまで私を有罪にしたがる理由を考えてもらいたかった。

政府の証人移住計画は、表向きはマフィアとの裁判で証人となる者を守るためにある。
だが今回のケースは、私が面接できないようにする処置だった。

私はジャーヴェが名前を変えて他国に移されていたため、彼を探し出すことができなかった。

パーシング・ジャーヴェは、カナダに事実上の拘束をされている事に抵抗し、1972年5月にテレビ局のインタビューを受けていた。

私はそのインタビューから起こした原稿を、法廷で読み上げた。

「政府のために嘘をつくよう強制された。
司法省に誘惑されたが、連中が狙っていたのはジム・ギャリソンだった。」

彼は自分の発言であることを認めた。

私は続けて、次の発言も彼のものか確認した。

「連中はギャリソンを沈黙させたがっていた。
政府の起訴は欺瞞ででっち上げだ。」

(※これは71年の起訴の件について語っている)

彼は発言したことを認めた。

私は追及の手をゆるめず、政府が偽造したテープを叩くため、ニューヨーク市立大学の音声学教授のガーツマン博士を証人として呼んだ。

ガーツマンは「テープは編集してつなぎ合わせてあり、ノイズ・レベルが一貫していない」と証言した。

私は無罪となった。

(2018年9月24日に作成)


『ケネディ大統領の暗殺事件』 目次に戻る

『アメリカ史』 トップページに行く

『世界史の勉強』 トップページに行く

『サイトのトップページ』に行く