(『ゴッドファーザー伝説(ジョゼフ・ボナーノ一代記)』ビル・ボナーノ著から抜粋)
1957年3月に、私と妻のロザリーは、父(ジョゼフ・ボナーノ)のお供をしてキューバに行った。
これは(ニューヨーク・マフィアのボスの1人である)フランク・コステッロの早い出獄を祝うためで、(同じくニューヨーク・マフィアのボスである)アルバート・アナスタシア、ジョー・プロファッチ、マイヤー・ランスキーも同行していた。
コステッロは盗聴容疑で収監されていたが、その容疑が覆って出獄した。
キューバで我々は、マイヤー・ランスキーの客としてホテル・ナシオナルに滞在した。
そしてキューバの独裁者であるフルヘンシオ・バティスタのもてなしを受けた。
ホテルには豪華なカジノがあり、バティスタは無限のチップを我々の妻たちに提供した。
バティスタは我々の支援を求めて、「カストロの反乱を阻止するために、アイゼンハワー大統領に働きかけてくれ。アメリカ軍のキューバ侵攻に、私は反対しない。」と言った。
キューバでは、ニューヨーク・マフィアのボスである、アルバート・アナスタシア、フランク・コステッロ、トミー・ルッケーゼ、マイヤー・ランスキーらがカジノを運営していたし、彼らはキューバを中継地にしてドラッグ売買もしていた。
だが私の父は、バティスタに支援を約束しなかった。
その後で、アナスタシアが言った。
「バティスタを支援してみるべきじゃないかな。
カストロを叩き潰したら、かなり人目を引く(評価される)だろう。」
父は気乗りしない様子だったが、それを見たアナスタシアは「俺たちはここに利害があるが、あんたには無いからな」と言った。
父は言い返した。
「利益の5割はバティスタが持っていってるんだろう?
カストロが勝利したら、その割合を少なくできるかもしれんぞ。」
その晩遅く、妻ロザリーはカジノでの大勝利を思い出して、大笑いした。
彼女は言った。
「負けるはずがないようになっていたのよ。ちょっと見え見えすぎたわ。」
キューバ旅行から2ヵ月と経たない1957年5月に、フランク・コステッロはニューヨークで撃たれた。
銃を持った1人の男が暗がりから現れ、「こいつをお前にくれてやる!」と言って発射した。
コステッロは声のした方を振り返ったが、それが彼の命を救ったらしく、銃弾は頭蓋骨を薄くえぐっただけに終わった。
コステッロは倒れて、あたりは血の海となった。
フランク・コステッロを撃ったのはヴィニー「ザ・チン」ギガンテで、彼はコステッロのファミリーの副ボスをしているヴィト・ジェノヴェーゼの子分だった。
この内乱には、ドラッグが絡んでいた。
ジェノヴェーゼはドラッグ売買に手を染めていたが、コステッロは1947年のコミッションの決定に従って売買をしていなかった。
この銃撃事件の後、アルバート・アナスタシアは私の父とジョー・プロファッチを訪ねて、「ジェノヴェーゼを排除したい」と告げた。
だが父は、シチリアに旅行する直前で、彼とあまり話ができなかった。
父は、「私としてはお前さんに何もしてもらいたくない。これがエスカレートしたら戦争になり、皆が吞み込まれてしまう。」と言った。
アナスタシアは、「あんたの帰国まで待つ」と約束し、「俺の命をあんたに預ける」と言った。
それが運命の分かれ道だった。
父はその夏の終わりにシチリアへ発ち、シチリア・マフィアのボスの1人であるベネデット・ルッソと会った。
シチリアでも、古参のメンバーと若いメンバーに亀裂が生じていて、問題の中心にはトルコ産のアヘンがあり、アメリカのマフィアがそのドラッグ売買に関わっていると、父は告げられた。
父はこう反論した。
「それはあり得ない。
我々はドラッグ取引を禁じているし、うちのファミリーではそれを破った者は死刑になる。」
だが、シチリア・マフィアのボスの1人であるヴィンチェント・ヴェルチェッリが言った。
「あんたのファミリーはそうかもしれんが、他のニューヨークのマフィアは手を染めているんだよ。
あいつらはカネだけにたかる虱(しらみ)なんだ。我々の伝統なんか気にするもんか。」
1957年10月25日に、アルバート・アナスタシアはパーク・シェラトン(ホテル)の理容室でひげと髪を整えさせている時に、2人の男に射殺された。
マフィアの世界では、ファミリーのボスを公然と殺害するのは、戦争行為である。
1951年にアナスタシアは、自分のボスであるヴィンチェント・マンガーノを殺害してボスの座を奪ったが、マンガーノは行方不明になったので殺しの確証はなかった。
もっともマンガーノの弟は、他殺死体として発見されたが。
アナスタシアの殺害は、公衆の面前で行われたもので、マンガーノ殺害とは全く別だった。
アメリカ中の新聞が報じたが、犯人は分からなかった。
私の父(ジョゼフ・ボナーノ)は、アナスタシア殺害の2日後にアメリカに帰国したが、すでに緊急のコミッション開催が決まっていた。
場所は、アナスタシア・ファミリーのリチー・ボイアルドの屋敷だった。
この会議では、アナスタシア殺しの第一容疑者はヴィト・ジェノヴェーゼとされた。
ジェノヴェーゼは、自分のボスのフランク・コステッロが(前述のとおりに)撃たれて大怪我をし、引退をすると、そのファミリーを牛耳り、トミー・ルッケーゼと組んでコミッション内で力を得ていた。
ジェノヴェーゼは、リベラル派(ドラッグ売買の容認派)のリーダーになっていた。
父はこの会議の議長だったが、アナスタシアの後継者としてカルロ・ガンビーノを提案した。
ガンビーノは、ジェノヴェーゼとルッケーゼの盟友で、この時点ではアナスタシア殺害にも関わっていると思われていた。
実際にアナスタシア・ファミリーのトミー・ラヴァが率いる一派は、ガンビーノに戦争を仕掛ける準備までしていた。
父は、「平和を維持するにはガンビーノが良い選択なのだ」と説いた。
「ガンビーノとルッケーゼは、子供の結婚を通じて親戚になっているのも、協調しやすいはずだ」と説いた。
そして「3年間、ガンビーノに暫定リーダーをやらせてみよう。その間に平和が保たれるか見極めればいい」と主張した。
父に異論を唱える者はいなかった。
リベラル派の拡大になる決定なので、父の頭がおかしくなったと思った者もいただろう。
(※ジョゼフ・ボナーノは、リベラル派と対立する保守派の1人だった)
父がガンビーノを推した真の理由は、別にあった。
父はガンビーノを弱い男と見ており、陰では「女々しい奴」と呼んでいた。
父は、私にこう話したことがある。
「ある晩、我々がレストランにいた時、アナスタシアは険悪な雰囲気だった。
部下のガンビーノが仕事をしくじったからだ。
ガンビーノが姿を現すと、アナスタシアはつかつかと歩み寄り、皆が見ている前で横っ面をひっぱたいた。
それはショッキングで屈辱的なことだった。
だがガンビーノの奴は、ヘラヘラと笑っていた。
もっと強い男なら、怒りの印を見せるか、そのまま踵を返して帰ったはずだ。
奴は、アナスタシアがひたすら怖かったんだ。」
父は、ガンビーノは臆病なので、戦争が起きそうになったら回避する道を採ると考えたのである。
上記の会議(コミッション)のすぐ後の1957年11月に、ステファノ・マッガディーノが招集したため、ニューヨークのアパラチンでも会議(コミッション)が開かれることになった。
アパラチンでは5年に1度、コミッションの全国会議が開かれてきたが、前回は1956年に開かれていて、今回のはアナスタシア殺害をうけた緊急会議だった。
すでにカルロ・ガンビーノが後を継ぐ決定が成されていたので、父は行きたがらなかった。
しかし周りに説得された。
父は、従兄弟のマッガディーノがしゃしゃり出て会議を招集したことに、納得がいかなかった。
父はマッガディーノと会って質問したが、裏切りの兆候を見出せなかった。
このアパラチン会議は、バーバラ・ファミリーのジョゼフ・バーバラの屋敷で行われることになっていたが、事前に情報が漏れてしまい、警察の非常線が張られた。
参加者たちは警官に身分証を調べられ、やがて解散させられた。
翌日の新聞は、「全米マフィア会議が中途で解散させられた」と書き立てた。
そしてマフィアの存在がようやく一般市民にも、明らかにされた。
父はアパラチンに向かおうとしているところで事情を知り、会場には行かなかった。
だが新聞は現場にいたと報じて、父を「ボスの中のボス」「ゴッドファーザー」と呼び始めた。
そして父は、政府や警察の標的になった。
そのためすぐに、父はニューヨークを離れて、西部のアリゾナ州ツーソンに移住した。
私は父のメッセージを、ニューヨークにいるボナーノ・ファミリーの構成員に伝える役目となり、徐々に父の代役になっていった。
他のファミリーとの会談は、古参メンバーのニック・アルフォニオ、ガスパー・ディグレゴリオ、ジョン・タルタメッラ、ジョニー・モラレスに任された。
私も共に出席した。
ちなみに他のファミリーとの会議は、終わるまで休みがないのが、マフィアのルールだ。
ときには14時間に及ぶ時もあった。
煙草を吸ってはならないし、水以外は飲んではならず、トイレ休憩を除いて休みはなかった。
入室を許される者は決まっていて、リーダー(ファミリーのボス)と助言者以外は部屋の外に待たされた。
父は、1959年に2度目の心臓発作に襲われ、引退さえ口にするようになった。
その頃、プロファッチ・ファミリー内で、ガロ兄弟の反抗が表面化した。
ガロ兄弟の2人は、ニューヨークのブルックリンのレッド・フック地区の出身で、アルバート・アナスタシア殺害の実行犯だった。
この2人はプロファッチ・ファミリー内の反体制派で、ヴィト・ジェノヴェーゼやトミー・ルッケーゼと親しくしていた。
ガロ兄弟がアナスタシアを殺したと判明した時、本人たちもそれを認めたが、何のおとがめも無かった。
私の父を含めた保守派のボスが、ガロ兄弟への復讐を望まなかったことは、ガロ兄弟を増長させただけだった。
ある時、プロファッチ・ファミリーのナンバー・ツーであるジョゼフ・マグリオッコら4人のリーダーが、ガロ兄弟に誘拐された。
ガロ兄弟は、もっとカネと権限を与えろと要求し、数日後にマグリオッコらはそれを認めて解放された。
その間、ボスのジョー・プロファッチはフロリダ州にいた。
この事件は、コミッションが片をつける問題だったが、アパラチン事件の後遺症でボスたちは動きが取れなかった。
私の父を含む多くのボスが、政府の告発や召喚状から逃げるのに忙殺されていた。
マフィアを訴えた裁判で最も大きな被害を与えたのは、ネルソン・カンテプロスという下っ端の麻薬密売人だった。
彼は逮捕されると全てをしゃべり、その情報でヴィト・ジェノヴェーゼらが(1958年7月に)麻薬密輸で逮捕された。
裁判の結果1960年に、ジェノヴェーゼはジョージア州アトランタの重罪刑務所に入った。
だが彼は獄中から、自分のファミリーを支配し続けた。
ほぼ同時期(1959年11月)に、ジェノヴェーゼ・ファミリーの下っ端のジョー・ヴァラキも逮捕された。
これにより(ヴァラキがマフィアの内情を告白したため)、はるかに大きな激震が起きることになった。
我々ボナーノ・ファミリーからも、麻薬密輸でグループ・リーダー(幹部)のリロ・ガランテが有罪となった。
これは、とてつもない痛撃だった。
ボナーノ・ファミリーでは、麻薬取引を禁じていて、掟を破った者は死刑になる決まりだった。
ところが父は、「もういい、放っておけ」と言った。
「手を染めているなら死に値するが、そいつらを殺したところで問題の根絶にならない」と語る父は、全身から恥、悲しみ、怒りがにじみ出ていた。
この父の反応は、私には今日まで謎のままである。
私だったら、容赦ない報復をしただろう。
だが父は、「アメリカではカネが全てを決めるようだ」と繰り返し口にし、「カネは力を得るための手段にすぎないという意識が失われてしまった」と嘆いた。
理解しておかなければならないのは、この時期にマフィア界には亀裂が生じたが、アメリカ国内で我々の力は絶頂にあった事である。
キューバ、ラスヴェガス、ハイチといった場所には、マフィアの賭博帝国が築かれていた。
これはアメリカの州政府が賭博を合法化するまでは、成長が止まらなかった。
それに我々は、合法ビジネスを構築していた。
例えば、ジョー・プロファッチは全米最大のオリーヴ油の輸入業者だった。
私の父は、ニューヨークで衣料と運輸の仕事をしていたし、ウィスコンシン州とカナダにはチーズ工場を持っていて、アメリカ西部でも事業をしていた。
合法ビジネスで大金を稼ぐ男たちにとっては、リスクのある麻薬取引に関わる必要はなかった。
ボナーノ・ファミリーは、もっぱら交渉を仕事にしていた。
仕事は労働組合および地元政府と複雑に結びついており、道路建設やごみ収集に利権があった。
私の父は、ニューヨークのボスの中で最も長くボスをしていたために、特別な尊敬を得ていた。
父の力は、武力ではなく、知力と政治力だった。
マフィアの会議では、25人のファミリーのボスも、500人のファミリーのボスも、同じ重さの一票が与えられる。
それはアメリカ上院と同じだった。
だが父には威光があるので、多くのリーダーが同調したのだ。
父の会議における指示は、平和の維持だったが、我々の世界は分裂しつつあった。
(2022年11月7&9日に作成)