(『世界歴史大系 アメリカ史2』から抜粋)
農業就業者の割合は、1860年の53%から、1900年には40%に減少した。
しかし1860年~90年の30年間に、農業面積は1.5倍に拡大し、就業人口も1.5倍に増え、生産性も44%上がった。
その一方で、価格は低迷し、価格指数は162→56へ落ちた。
そのために、所得は横ばいだった。
(※農業就業者の割合が減っているのに就業人口は増えているが、この時期は全米で人口が急激に増えていた)
西部の農民は、(新規の開拓者だったために)通常は負債を負って経営をしており、当時は銀行が少なかったので高利の金を借りなければならなかった。
しかし不況の中で崩壊したのは大農場で、小農場は生き延びた。
農産物の運搬には鉄道が基本となり、運賃は「鉄道会社によって恣意的に決められていた」ため、農民の不満を買った。
南部では、前借り制度のために、小作人は借金奴隷となった。
白人自作農者も、借金のために土地を取られ、綿を作るように命じられた。
しかし、綿価格は低迷した。
農民たちは作物の価格上昇を望み、インフレ政策を求めた。
1880年代末に農業不況となると、農民たちは『農民を代表する新党・人民党』を92年に設立し、政府に議員を送り込み始めた。
1867年には、『農業擁護者会』が設立された。
これは、「隣人も少なく、文化施設から離れて生活する農民のために、交流の機会を提供する」目的で創られた。
(広大な国土のため、日本のような濃密な繋がりのある農村は成立しづらいようだ)
この会は、1869~74年の間に、中西部で「鉄道運賃を規制する法」を成立させた。(グレンジャー立法という)
人々は連邦政府にも規制を求め、87年に『州際通商委員会』を設置させた。
(2013.1.11.)