(『世界歴史大系 アメリカ史2』から抜粋)
1895年にキューバで、スペインからの独立を求める反乱が再発した。
アメリカ世論はキューバに同情し介入を求めたが、財界とマッキンリー大統領は消極的だった。
1898年2月にキューバのハバナ港で、米国の船・メイン号の沈没事故があり、介入の声が高まった。
沈没の原因は不明だったが、米国のメディアは「スペインのせいだ」と報じた。
スペインは譲歩を申し出たが、米国は拒否し議会は介入を許可した。
この戦争で米国は、スペインに大勝して、スペインは「キューバの放棄」「プエルトリコ島とグァム島の割譲」を行う事になった。
米軍はスペイン領のマニラを占領し、「ハワイの併合」も同年7月に議会で承認された。
アメリカは、マニラ占領によって「フィリピンの領有」も決め、これは12月にパリ講和条約で認められた。
これを認めないフィリピン人は、米軍との戦いを始め、3年に渡って戦いは続いた。
1901年にはキューバ憲法が制定されて、米国の支配の下でのキューバ独立が決まった。
キューバが、軍事基地を米国に供与することも決められた。
このような対外活動に対し、米国の理念に反するという声も大きく、これ以後米国は「植民地を増やさない方針」となる。
そして、「相手国の門戸を開放させる」という方法に切り替えた。
(2013.3.22.)