(『アメリカの歴史を知るための62章』から抜粋)
1870年代に西部で、白人とインディアンの戦争が激化すると、インディアンに同情的な白人達は、「インディアン権利協会」などに結集して、インディアン救済策を議論した。
彼らは、インディアンの文化にまったく理解を示さず、「インディアンの文化を破壊して、インディアンをキリスト教徒の自営農民に改造しよう」と力説した。
1887年2月に成立した、「保留地に住むインディアン達に、単独保有地を割り当てるための法」は、上記の考え方を具体化したものである。
この法律は、法案を出したドーズ議員にちなんで、『ドーズ法』と呼ばれている。
ドーズ法は、保留地におけるインディアン部族の土地共有制を廃止して、すべての土地を個人保有地に細分化して、強制的に割り当てた。
さらにドーズ法は、「割り当てられた土地を、25年間は売ったり譲渡したりしてはならない」と決めた。
さらに、土地を割り当てられた者は、アメリカ国民になる事を規定した。
チェロキー族などの12の部族は、ドーズ法を免れて、除外された。
ドーズ法は、1862年に成立した「自営農地法」を、インディアンにも適用しようとする試みから生まれた。
しかし、自営農地法で白人たちに無償供与された土地は、元々はインディアンの土地である。
それに、ドーズ法で割り当てられた土地は、インディアン保留地の一部分だけだった。
ドーズ法は、割り当てて余った土地は、白人に与える事を定めており、白人たちの欲望の的となった。
割り当てられた土地に行ったインディアンたちは、農業に不慣れだったために、零細農家となり、結局は土地を手放していった。
チェロキー族などのドーズ法を免れた者も、1898年のカーティス法で土地の割り当てを強制されて、独立を失った。
最終的には、13800万エーカー(1887年時点)あったインディアン保留地は、4700万エーカー(1930年)にまで減少した。
ドーズ法は、インディアンから白人へと土地所有の移転を行い、膨大な数の貧困インディアンを生んだ。
ドーズ法は、白人への同化教育も推進した。
インディアンの文化は、「野蛮である」と断定されて、インディアンの習俗や儀礼は禁じられた。
子供達は、寄宿学校に強制的に収容されて、英語とキリスト教を強要された。
インディアン文化の抹殺が、図られたのである。
土地割り当てと白人への強制同化は、1934年の『インディアン再組織法』によって否定された。
そして、部族の自治・自立が認められた。
1890年に25万人にまで減少したインディアン人口は、2000年には250万人にまで回復している。
なお、日本政府がアイヌ民族を対象として作った、『北海道の旧土人の保護法(1899年)』は、ドーズ法を参考にして制定されたと言われている。
(2013.7.10.)