(『アメリカの歴史を知るための62章』から抜粋)
南部の再建が未完のままに連邦軍が撤退すると、南部の黒人にとっての「どん底の時代」がやってきました。
南部の白人は巻き返しを始めて、黒人が新たに獲得した権利を奪っていきました。
連邦憲法の修正13~15条では、黒人の市民権と選挙権が保障されました。
しかし南部の諸州は、「連邦憲法よりも州法が優先される」との最高裁判決を根拠にして、州法で黒人を縛ろうとしました。
1890年にミシシッピ州は、投票権の資格として「祖父条項」を加えます。
これは、「祖父が投票権を有していた者のみが、投票権を有する」という内容で、これによりすべての黒人が排除されました。
南部諸州では、黒人は二級市民に落とされて、公共の乗り物・公共施設・学校で、白人と隔離されました。
このような人種隔離のルールは、『ジム・クロー法』と呼ばれました。
黒人達は裁判を起こしましたが、連邦最高裁は1896年に「分離すれども平等である」という判決を下します。
そして、1954年に人種隔離教育を違憲とする「ブラウン判決」が出されて、公民権運動が盛り上がるまでは、南部のルールであり続けました。
KKKなどの白人至上主義者たちは、黒人に非道なリンチを繰り返しました。
1892年には、リンチ件数はピークを迎えました。
ジャーナリストのアイダ・ウェルズは、南部でリンチの実状を調べて、リンチの大半の理由だった「黒人男性が白人女性を強姦した」という話は、皆無に等しいことを明らかにしました。
ウェルズは、白人から襲われそうになり、北部に逃げる事になりました。
ウェルズの告発は、北部の黒人たちに刺激を与えて、1896年には『全米の黒人女性の協会』が創設されました。
南部の黒人指導者だったブッカー・T・ワシントンは、「南部黒人の経済的な自立」を唱えて、白人との宥和路線をとりました。
彼は、黒人に技能を身に付けさせるために、職業訓練学校を設立しました。
もう1人の黒人指導者だったデュボイスは、「黒人の解放運動は、(白人のエリートではなく)黒人のエリート(知識人)によって進められるべきだ」と主張しました。
これには、黒人知識人の賛同者が多く、1909年の『NAACP(全国の黒人の地位向上協会)』の創設につながります。
(2013.7.19.)