ニール
あなたは、「正邪(正誤)の価値観は、想像上のものだ。単なる視点にすぎない」と言います。
そう言われても、正しい事のない世界なんて、受け入れられません。
やっぱり、変わらぬ基本的な価値観はあるんじゃないですか?
例えば、盗みはどうですか?
「他人のものを奪ってはいけない」、これは基本的な価値観ですよ。
神
ただし、相手に権利がないと考えれば、あなた方は奪うね。
私は、『あなた方の考え方や欲求が変化すれば、価値観も変化する』と言っている。
相手のものがどうしても欲しい時、あなた方はそれを奪う事を、価値観を変えて正当化する。
これまでは、そうしてきたのだよ。
価値観とは、「欲求・行動・所有しているもの」が変わっただけで、簡単に変わる。
都合よく棚上げにしない、「変わらぬ価値観」など、1つもない。
だから、「絶対に間違っている事はある」と思うなら、自分をごまかしているのだよ。
ニール
それでは、私たちは「間違っている」とおっしゃるのですか?
神
なるほど、上手い所を突くね。
そこで出てくるのが、「間違っている」という言葉の問題だ。
この言葉は、2つの違った意味で使われてきた。
1つは「やりそこない」、もう1つは「倫理的な過ち」だ。
「やりそこない」というのは、『望んだ結果にならない行動』だ。
「倫理的な過ち」というのは、『社会が決めたルールや法律に違反する行い』だ。
「やりそこない」は、本来は単なる「機能的な失敗」だが、宗教が絡んでくると倫理的な失敗と同一視されて、『罪』と見なされてしまう。
そうなると、失敗は「神に背くこと」と見なされて、不当に重い制裁が科される。
こういう状態は、大きな紛争・戦争の温床になる。
攻撃する事が、「信仰を防衛するための、神に認められた行動だ」と、正当化されるからだ。
ニール
地球では、その通りの事が起こっています。
神
だからこそ、『第7の新しき啓示』が必要なのだ。
この啓示によって、「やりそこない(失敗)」と「倫理的な過ち(罪)」が分けられて、神の意志を持ち込むことが無くなる。
(『新しき啓示』から抜粋)