神
あなた方の聖典の言葉の多くは、どんな文明社会にも一度も当てはまらなかった。
この事を認めるかな?
ニール
ええ、認めます。
聖典に書かれている「神の法」の中には、筋の通らないものもあります。
神
そうだ。
筋の通らないものは、沢山ある。
「親の言葉に従わない息子は、町中の男達が石で打ち殺すべきである」
「死体に触れた者は、7日間は不浄である」
「聖職者ならば、奴隷を持ってもいい」
「安息日には、どんな仕事もしてはならない」
「貧しい兄弟を買って、召使いにしてもいい」
「セックスをした後は、どちらも不浄である」
こうした、まっとうな者なら意味を成さないと思える神のルールは、いくらでもある。
実は、「聖典のほとんどが、そういうルールで出来ている」と言ってもいいくらいなのだ。
私がたくさんの事例を挙げたのは、この事を分かってほしいからだ。
『あなた方は、倫理の権威を聖なる法に置いてきたが、その時々に応じて、その法を臨機応変に当てはめてきた』
ニール
「聖典の中で、実生活にそぐわないと思う部分は、無視してきた」とおっしゃるのなら、それは認めますよ。
神
この事実を言い換えれば、こうなる。
『あなた方の倫理には、何が役に立って何が役に立たないか、という以外の基準はまったくない』
聖典の中の多くの言葉について、「これは文字通りには従うべきでない」と、あなた方は認めている。
それは、行動に示されている。
1つの聖典の中にも矛盾があるし、聖典どうしも矛盾している。
だからあなた方は、適宜に基準を選び出してきた。
もちろん、そんな事は認めたくはないだろう。
それでは、「相対主義者」と非難されかねない。
あなた方は、「絶対主義者」でいたいのだ。
「絶対的な正義」や「絶対的な正邪」があると、信じていたいのだ。
だが最終的には、「あなた」が決めなければならない。
聖典の内容を、柔軟性なしにすべて適用するのは、ばかげているのが明らかだからだ。
要するに、「宗教的な法の多くは、無視した方がいい」と、あなた方は認めている。
だから宗教的な法は、倫理の真の支えにはなり得ない。
あなた方は自らの行動で、『倫理とは、実は機能性である』と証明してきたのだよ。
ニール
『機能性』という生命の原理は、すでに明らかになっているのですね。
神
そうだ。
あなた方はすでに、「本当に正しい事は、機能する事だ」と理解している。
ただ、認めようとしないだけだ。
(『新しき啓示』から抜粋)