倫理の基にある原理は、「機能性」だ②
あなた方は自らの行動で、それを証明してきた

 神

あなた方の聖典の言葉の多くは、どんな文明社会にも一度も当てはまらなかった。

この事を認めるかな?

ニール

ええ、認めます。

聖典に書かれている「神の法」の中には、筋の通らないものもあります。

 神

そうだ。
筋の通らないものは、沢山ある。

「親の言葉に従わない息子は、町中の男達が石で打ち殺すべきである」

「死体に触れた者は、7日間は不浄である」

「聖職者ならば、奴隷を持ってもいい」

「安息日には、どんな仕事もしてはならない」

「貧しい兄弟を買って、召使いにしてもいい」

「セックスをした後は、どちらも不浄である」

こうした、まっとうな者なら意味を成さないと思える神のルールは、いくらでもある。

実は、「聖典のほとんどが、そういうルールで出来ている」と言ってもいいくらいなのだ。

私がたくさんの事例を挙げたのは、この事を分かってほしいからだ。

『あなた方は、倫理の権威を聖なる法に置いてきたが、その時々に応じて、その法を臨機応変に当てはめてきた』

ニール

「聖典の中で、実生活にそぐわないと思う部分は、無視してきた」とおっしゃるのなら、それは認めますよ。

 神

この事実を言い換えれば、こうなる。

『あなた方の倫理には、何が役に立って何が役に立たないか、という以外の基準はまったくない』

聖典の中の多くの言葉について、「これは文字通りには従うべきでない」と、あなた方は認めている。

それは、行動に示されている。

1つの聖典の中にも矛盾があるし、聖典どうしも矛盾している。

だからあなた方は、適宜に基準を選び出してきた。

もちろん、そんな事は認めたくはないだろう。
それでは、「相対主義者」と非難されかねない。

あなた方は、「絶対主義者」でいたいのだ。

「絶対的な正義」や「絶対的な正邪」があると、信じていたいのだ。

だが最終的には、「あなた」が決めなければならない。

聖典の内容を、柔軟性なしにすべて適用するのは、ばかげているのが明らかだからだ。

要するに、「宗教的な法の多くは、無視した方がいい」と、あなた方は認めている。

だから宗教的な法は、倫理の真の支えにはなり得ない。

あなた方は自らの行動で、『倫理とは、実は機能性である』と証明してきたのだよ。

ニール

『機能性』という生命の原理は、すでに明らかになっているのですね。

 神

そうだ。

あなた方はすでに、「本当に正しい事は、機能する事だ」と理解している。

ただ、認めようとしないだけだ。

(『新しき啓示』から抜粋)


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