ニール
あなたは、「倫理は、臨機応変に変わるものだ。絶対に変わらない倫理など無い」と言いますね。
神
倫理は、状況に応じて変化するし、文化によって違うものだ。
人々は、倫理の教えが現実に合わないのを発見すると、ほとんどの場合は倫理を簡単に変えてしまう。
例えば、大抵の人は、「正直に生きるのが正しい」という倫理を持っている。
だが、税金はごまかす。
そして、「これはこれで構わないのだ。皆がやっている」と言う。
しかし、倫理を変えたならば、信念も変わったのだ。
倫理とは、信念の表現だからね。
彼らは、偽善者であり、まったく信念を持っていない。
ただ、信念を持っていると信じたいだけだ。
当人たちは満足だろうが、こうした行為は世界を狂わせる。
ニール
すると、倫理は必要ないのですか?
神
あなたは、すぐに「30秒のダイジェスト版」を作ろうとするが、私が言っているのはそういう事ではない。
私は、こう言っているのだよ。
『あなた方は、倫理と呼ぶ社会的な仕組みを創ってきた。
そして倫理は、しょっちゅう変化してきた。
だが、あなた方は変化を認めようとしない。
それは、自分が正しいと思いたいからだ。』
あなた方は、「機能的な失敗」に、「倫理の堕落」というレッテルを貼ろうとする。
そうして、批判的な判断を下して、自分の対応を正当化する。
自分の対応を「倫理的な義務」と呼んで、「自分は倫理的に、こうせざるを得ない」と主張する。
死刑が、いい例だ。
あなた方は、「神の法や倫理から見て、死刑は正当だ」と言う。
それによって、社会がとくに安全になるわけでもないのに。
要するに、報復なんだよ。目には目を、という事だ。
ニール
そうですね。
報復を「正義」と呼んで、印象を和らげようとしています。
神
真に重要なのは、『機能性』だ。
行動や対応が、目的に照らして有効かどうかだ。
この視点で考えれば、まったく違った見方で物事を見ることになる。
そうなれば、暴力と破壊の悪循環から出られる。
死刑の例でいえば、死刑は犯罪防止に役立っているだろうか?
機能しているか?
ニール
犯罪防止には、役立っていません。
死刑が多い国や、死刑が多いアメリカの州の犯罪率は、特に低くない事が、統計的にはっきりしています。
神
「暴力(殺人)を無くすために、暴力(殺人)に訴える」というのは、本末転倒だよ。
そうした行為は、狂気の行動を誘発する。
各地で起こっているテロが、よい証拠だ。
(『新しき啓示』から抜粋)