「モンク・ウィズ・コルトレーン」は、あまたあるジャズ・アルバムの中でも異彩を放っている作品です。
『ジャズ史上の巨匠である、セロニアス・モンクとジョン・コルトレーンの2人が共演する』という、豪華なアルバムです。
この2人が共演しているアルバムは、他にはライブ盤を含めても数枚しかありません。
とても貴重な作品といえます。そうして、内容も素晴らしいです。
なぜこの2人の共演が実現したかと言うと、コルトレーンがマイルス・デイビスのバンドをクビになったからです。
クビになったコルトレーンは、少しの間引退した後に、モンクのバンドに加わりました。
そして、ここで紹介するアルバムを録音しました。
コルトレーンの、モンク・バンドに加入するまでの音楽キャリアは、とても面白い話です。
少し長くなりますが、詳しく紹介しましょう。
ジョン・コルトレーンは、素晴らしい才能を持ったテナー・サックス奏者ですが、あまりに斬新なスタイルのために、ごく一部の仲間のミュージシャンを除いては、なかなか彼のプレイを理解しませんでした。
そうして彼は、周りに理解されないままに30歳近くまでいくつかのバンドを転々とし、くすぶった音楽生活をしていました。
彼ほどのミュージシャンが、デビューしてから10年間もずっと、ほぼ無名のままだったのです。
そんなある日のこと、すでにジャズ界で有名だったマイルス・デイビスから、「俺のバンドでプレイしないか?」との誘いが来ました。
マイルスのバンドでドラムを担当しているフィリー・ジョーが、「コルトレーンはやれるぜ」と推薦したため、マイルスは「チャンスを与えてみるか」と考えたのです。
フィリー・ジョーは、コルトレーンと同郷であり、彼の演奏の素晴らしさを熟知していました。
コルトレーンは喜び勇んで、マイルス・バンドの練習に参加しました。
ところが、マイルスは不機嫌な態度を見せてそれを崩さず、練習中にほとんどコルトレーンを無視します。
コルトレーンは心が折れてしまい、逃げ去るように消えて、他のバンドに入ろうとしました。
この時の事をマイルスは、次のように回想しています。
「コルトレーンは練習に来るなり、『どうプレイしたらいい?』と聞いてきやがった。
プロのミュージシャンなら、自分でどんなプレイが最適か考えるべきじゃないか?
自分で居場所を探すのが筋じゃないか。
だから俺は、不機嫌だったんだ。」
コルトレーンは、最終的にはマイルスのバンドに加わりますが、前途多難な感じのスタートとなったのでした。
おそらくコルトレーンは、それまで低評価の扱いを受け続けていたために、自分を打ち出すのを恐れていたのでしょう。
しかし、ジャズの帝王マイルスが最も嫌う事は、『自分を出さないこと、自分を偽ること』です。
コルトレーンは、マイルスのバンドに加入する事で、ついに自分のスタイルをめい一杯出せる環境を得て、才能を開花させました。
実は、マイルスのバンドには、テナー・サックス奏者はソニー・ロリンズが加入するはずでした。
マイルスは、それまで何度も共演した事のあるロリンズの才能に惚れ込んでおり、最初にロリンズに声を掛けようとしました。
ところがロリンズは当時、麻薬を絶つために更生施設に入っていて、行方不明になっていました。
連絡がつかないので、仕方なくマイルスは代わりのテナーサックス奏者を探していたのです。
そして、コルトレーンにチャンスが与えられたのでした。
1955年(コルトレーン29歳)の出来事でした。
コルトレーンは、マイルス・バンドに加入すると、マイルスの指導の下でぐんぐんと成長し、一気にジャズ界で最も期待される若手プレイヤーに躍り出ました。
マイルスの指導力は、伝説になって語り継がれているほどで、数々のプレイヤーがマイルス・バンドで覚醒・飛翔しています。
順調に成長し、どんどん有名になっていくコルトレーン。
ところが、彼は麻薬に深く溺れていました。
マイルスのバンドに加入する事で金回りが良くなったからでしょうか、コルトレーンの麻薬禍は進んでいき、『クラブで演奏中なのに寝てしまったり、出演時間になっても現れない』という、最悪の状態になりました。
怒ったマイルスは、「そんな事をしていると、せっかく評価されて有名になってきたのに、そのチャンスが無になるぞ」と、実に的を得た忠告をしました。
恩師ともいえるマイルスの忠告は、おそらくコルトレーンの心に響いたはずです。
でも、深く麻薬に捕らわれていた彼は、生活態度を変えませんでした。
やがて、もともと気の短いマイルスは、完全にキレてしまいます。
楽屋でコルトレーンを叱責し、さらに頭を叩いたりと暴力まで振るうようになりました。
これが、すっかり常態化していたのでしょう。
ある夜に、楽屋でコルトレーンの腹にパンチを入れていたところ、ライブを聴きに来て楽屋まで挨拶に来たモンクに目撃されてしまいました。
ここで、ようやくモンクさんの登場です。
極めて優しい性格のモンクは、この暴力を見て憤り、「マイルス、お前。そんな八つ当たりをしちゃ駄目だぞ。」と叱りました。
マイルスも2年前までは麻薬常習者だったし、その時には数々の悪行・失態をしていました。
モンクからしたら、「お前がそんな事を言えるか? お前だって最近まで同罪だったじゃないか。」という心情だったでしょう。
さらにモンクは、すっかり自信を無くしているコルトレーンに、こう言葉をかけました。
「コルトレーン、お前は素晴らしいサックス奏者だ。
そんな扱いを受けるような奴じゃないんだぞ。
いつでも俺のバンドに来てプレイすればいいんだ。」
モンクは、偉大な作曲家兼ピアニストであり、膨大なコード進行の知識があります。
だから、コルトレーンの難解なアドリブ・ソロ(これゆえに彼はなかなか評価されなかった)もしっかりと理解し、
「コルトレーンは難しいソロをとるが、めちゃくちゃなものではなく、きちんとコード進行にのっとった理知的なソロなのだ」と分かっていました。
モンクの大人な態度に圧倒されたマイルスは、かつて自分がモンクに作曲を教わっていた(師事していた)事実もあり、黙って引き下がるしかありませんでした。
結局マイルスは、すぐにコルトレーンをクビにし、バンドから追放しました。
クビになったコルトレーンは、状況からいってすぐにモンクのバンドに加入する事も可能でしたが、「今の状態では、俺は駄目なままだ。いったん故郷に帰って、きちんと麻薬と縁を切ろう。」と決断しました。
そして帰郷し、自分の人生を見つめ直して、ついに麻薬をやめる事に成功しました。
彼はこれ以後、『ジャズ界で最も真面目なミュージシャン』となり、音楽への情熱や練習量の多さは、今でも語り継がれるほどの鬼気迫るものになりました。
彼は友人に、「今までの私は、音楽に真摯に取り組んでいなかった。その時間を取り戻すために、これからはいっさい妥協せずに取り組む。」と語ったそうです。
そうした彼を、マイルスは「あいつは、信じられないくらいに真面目になった。何かの使命を帯びて生きているかの様だった。」と回想しています。
麻薬から脱却し、健康と情熱を取り戻したコルトレーンは、ついにモンクのバンドに参加しました。
そして、モンクの下でさらなるコード知識や演奏技法を獲得し、『ジャズ界で最高クラスのサックス奏者』に成長しました。
コルトレーンが加入すると、モンクのバンドが定期出演しているジャズ・クラブ「ファイブ・スポット」は、長蛇の列が続くようになりました。
モンクのバンドは、かつてないほどの人気を博します。
それくらいに、コルトレーンの入ったモンク・バンドは素晴らしかったのです。
その素晴らしさは、「モンク・ウィズ・コルトレーン」に、ばっちり収録されています。
私が思うに、このバンドの魅力は、『独特のストイックさ』だと思います。
そこが特徴であり、今聴いても古く感じない理由だと思います。
あとは、カルテット(4人編成)という、シンプルなメンバー構成だというのも大きいです。
彼らが創り上げた音楽の特徴は、詳しくは後述します。
さて。
ここまでの話を読むと、「セロニアス・モンクは、人格者なのだ」と思えるでしょう。
しかし、それは彼の一面に過ぎません。
ジャズ・ミュージシャンの例に漏れず、彼もとんでもない奴なんです。
ファイブ・スポットに出演中、モンクはしょっちゅう演奏中にふらっと外出し、20~30分も帰ってきません。
気分転換なのか、散歩なのか、景気づけに一杯やりにいっているのか、知りませんが、その間は当然ながら、ピアノレスの演奏になります。
コルトレーンは、この事について、
「モンクが居なくなると、私はいつもより自由な演奏ができた。
ピアノレスになる事で、コード進行の制約から解放されて、より自由なアドリブを探究できたのだ。」
と、実に前向きなコメントを残しています。
コルトレーンのコメントだけ聞くと、何だか良い事が行われていたような感じですが、リーダーが演奏の途中で居なくなるなんて、とんでもない事です。
その間は曲が終わらず、延々とコルトレーンの長いソロが続くわけですし、「金を返せ」と言われてもおかしくないです。
1960年代くらいまでのジャズ・クラブは、今からは信じられないくらいの自由さがあったようです。
経営者たちはほとんどが白人で、黒人ミュージシャンを安い出演料で使って搾取していたのも事実なのですが、その寛容さには驚きを禁じえません。
お客たちも、文句をあまり言わなかったようです。
お客たちは、「ジャズ・ミュージシャンの9割は、変人だ。彼らに常識を求めるのは、ライオンにお手をしろと言うようなものだ。こっちが我慢するしかない。」と、理解していたのでしょう。
『リーダーがしょっちゅう消える』という現象はありましたが、繰り広げられる演奏は最高でした。
ジャズ界でも屈指の耳ざとさを持つマイルス・デイビスは、「今度のモンク・バンドは凄いぞ」との噂を聞くと、さっそく聴きに行きました。
すると、その演奏にしびれて、何度も通うようになりました。
そうして、「コルトレーンはさらに進化しているじゃないか。麻薬も絶ったというし。もう一度、俺のバンドに起用したいなあ。」と思い始めたのです。
何かを思い始めたら止まる事をしないのが、マイルス・デイビスという男です。
彼は、自分が1年前にコルトレーンをクビにしたにも関わらず、モンクのバンドからコルトレーンを引き抜く時を、虎視眈々と狙うようになりました。
そして、ファイブ・スポットでの契約期間が終了してコルトレーンが暇になると、すぐに声を掛けました。
コルトレーンは、「よし。もう一度マイルスのバンドで、新しいジャズを探究しよう」と決断して、誘いを承諾しました。
そして、『マイルストーンズ』『カインド・オブ・ブルー』といったジャズ史上の名盤を、マイルスと一緒に作っていくのです。
この『コルトレーンのマイルス・バンドへの再加入』は、結果的に大成功したため、ジャズ界では美談として語られています。
しかし冷静に考えてみると、モンクのバンドがかつてない人気を博している時に、その原動力となっているコルトレーンを引き抜くという、きわどい行いです。
それを躊躇なく実行したマイルスも、クビにされた過去があるのに再加入したコルトレーンも、只者ではないです。
そして、2人の我儘な行動を許したモンクが、一番すごいと思います。
モンクの人格については、「変人」という認識が一般的なのですが、私は彼の伝記などを読んでみて「モンクくらい良い奴は、めったに居ない。ジャズ史上でも屈指の、偉大な教師である。」と思ってます。
マイルスは自伝の中で、「モンクは、教え方はヘタだったが、質問すれば何でも即座に答えてくれたし、ピアノで弾いて実践して教えてくれた。自作曲の譜面も全部見せてくれたし、俺にとって作曲の師匠はモンクだ。」と述べています。
なかなか居ませんよ、こんな奴。
えー、長いお話になりました。
色々と書きましたが、要するに言いたいことは、これです。
「『モンク・ウィズ・コルトレーン』は、ジャズの歴史から見ても興味深いもので、コルトレーンの成長過程を描いた作品である。
そして、モンクのバンドが最高に輝いていた時の作品である。」
さらに付け加えると、『モンクとコルトレーンは、性格が似ており、相性がとても良い』というのも見逃せません。
2人は、次の点で共通しています。
「大衆性はいっさい無視(聴衆に媚びない)」
「演奏技法では独自性を貫く」
「分かり易さよりも芸術性を重視する」
「現世の快楽よりも、宗教的な深い精神性を表現する」
こういった特質から2人は、「孤高の存在」とか「スピリチュアルな音楽家」との評価を得ています。
この2人が共演しているため、このアルバムは、『ストイックさ』と『スピリチュアルな清浄感』が、信じられないほどあります。
そして、4人編成(ピアノ+テナーサックス+ベース+ドラム)というシンプルなメンバー構成のため、2人の生み出す世界観が薄まらずに、濃厚なテイストに仕上がっています。
モンクとコルトレーンの対話(楽器を通した対話)は、まるで哲学の講義のようです。
『モンク(師)が真理を教え、コルトレーン(弟子)が一所懸命に復習・復唱するのを、私が横で聴いている』
そんな感じすら、私は受けますよ。
モンク(師)とコルトレーン(弟子)の絡みぶりは、ブッダと弟子たちの対話のような、純粋で真摯な気迫を感じますねー。
聴いていると、神秘的なエネルギーを感じ始め、祈りを捧げている様な敬虔な心境になります。
音楽から一時的な快楽だけを得たがる人は、このアルバムを聴いても共感しないでしょう。
「なんだ、このクソつまらない演奏は?」とさえ思うかもしれません。
私は、このアルバムからは、バッハやベートーベンの音楽のような神秘的かつ宗教的なエネルギーを感じます。
とてもピュアなエネルギーを感じるし、雑念をぜんぜん感じません。
このアルバムは、数あるジャズ・アルバムの中でも、最もスピリチュアルなものの1つでしょう。
ある意味では、ジャズらしくないです。
つまり、ジャズらしい遊び心とか、ジャズらしい適度に不真面目な感じが無いです。
(モンクの音楽には、通常は特有の遊び心があります。
でもこのアルバムでは遊びは希薄で、圧倒的な真面目さがとにかく印象に残ります。)
私としては、とても好きなアルバムですが、もしかするとすごく人を選ぶ作品なのかもしれません。
まあでも、収録曲のうち半分はカルテット編成でないし、スピリチュアル度もだいぶ下がります。
ここからは、各曲ごとに詳しく書いていきますが、長文になったので2回に分けます。
(続きはこちらのページです)
(2013年12月23日に作成)